戦況 T攻撃部隊の挙げた戦果に気をよくした聯合艦隊と基地航空部隊の両司令部は、残存敵に徹底的な攻撃をかけるための攻撃部署を定めた。 この部署に編入された期友のほとんどは、台湾沖航空戟及びその後のフィリピン沖の海空戟に参加し散華してしまい生存している期友は極めて少なかった。 この部署に参加したのは二航艦、三航艦、五一航職摩下の航空隊と空母配乗の三航戦、四航戦の航空隊である。−四日の沖縄方面は、天候不良であったが、約三八〇機よりなるこれ等の攻撃部隊は、九州の各基地を発進して、沖縄で燃料を補給した後、第−攻撃隊が午後一時三〇分、続いて第二攻撃隊が午後二時三〇分に、それぞれ沖鈍の四つの飛行場から発進していった。 参加した各飛行隊は、前日南九州に進出したばかりでぁり、また所属艦隊も異なって全くの混成部隊で、しかも通信機の水昌片の準備が間に合わなかったため使用電波がまちまちで互いの連絡は円滑を欠いていた。更に沖縄南方海域の天候が不良であったため集合点での集合も思うにまかせず、同一飛行場を発進した編隊の各隊も前続隊を見失いがちで次第に分離し、各隊が個々に索敵攻撃を行なうはめになった。 話しを米機動部隊に移すならば、一三日被雷した重巡の「キャンベラ」は、艦底部に生じた大破口のため、機関室に浸水し自力航行ができなくなっていた。僚艦の巡洋艦ウイナタが曳航し、それを援護するために、当初の計画にはなかったが、機動部隊による小規模で一回限りの台湾攻撃を行ない、さらに在支那のB29二〇九機を出動させて高雄地区を攻撃させた。 一四日の午後一時ごろ、損傷艦部隊は、三・八節の速力で避退していたが、この速力では夕刻までに日本基地航空機の攻撃圏外に脱出することが困難であると判断した米艦隊司令部は、第一任務群(TG三八・一)にこの損傷艦部隊の北方海域を行動させ援護させた。米損傷艦部隊のこのような状況を我が軍は詳しくつかんでいたわけではなく、それまでに知り得た断片的な情報と自らの索敵による以外に手はなかった。 この時、わが攻撃部隊がつかんだのは、敵の損傷部隊とそれを援護するために北上した水上部隊であり、この新しい敵に対し、一四日以降連続した果敢な攻撃が行なわれ戦果を得たが、この目標は前述したように敵主力部隊でなかったので、これをもって大勢をばん回したと言うには至らなかった。 わが総攻撃を受けたのは、第一任務群(TG三八二)の援護部隊であった。一四日夕刻、銀河一一〜一六機の攻撃を受け、午後六時四五分に軽巡ヒューストンが右舷中央部に魚雷を受けて、「キャンベラ」を上回る大損害を受け機関室に浸水した。その状況では放棄もやむを得ないとされたが、同艦艦長の強い要望で重巡ボストンが曳航することになり、一五日ようやく避退針路に回頭して曳航を始めた。そして五〜六節の速力で戦場を避退していった。余談ではあるが、我々はここに、有利な戦勢 下であったとは言、え、極めて危険な作業を敢行し艦を救っ当時の米海軍の闘魂を発見するのである。 以下は、この攻撃に参加した期友の突入状況であるが、未帰還機が多くかつ夜間のことでもあり詳細不明な点が多く、その最期も確認されたものは少ない。 この攻撃隊は、爆撃隊と雷撃隊がそれぞれ分離して進撃した。多賀俊雄中尉の第一爆撃隊が全機未帰還、長野重書中尉の第一雷撃隊も未帰還多く、両中尉の最期は次のとおり全く不明である。
多賀中尉所属の第一爆撃隊の突入状況を知る資料は、この隊の後を進撃していた攻五〇一空の指揮官機(六十九期・山田恭司大尉)が受話して基地に報告したのが唯一のものである。 この山田隊長の指揮する攻五〇一(T攻撃部隊)の編隊が自ら発見した鴬らん鼻の七二度一四八浬の空母二隻、戦艦一隻の敵群に接敵中に、山田隊長機は第一爆撃隊の指揮官機が突撃を下令するのを傍受し、更に進んで敵の上空に達したとき、先着の聾星一〇数機が低空で爆撃しているのを目撃した。その時には巡洋艦又は駆逐艦のいずれかであろう一隻が炎上しているのを認めている。このように多賀中尉たちの爆撃隊が1ヒューストン」に大被害を与えたものであることが、この山田隊長機の報告から推定される。一二時三〇分沖鈍基地を発進したこの隊は全機未帰還となっている。そして長野中尉所属の第盲撃隊は別勤しており、未帰還機が多くその突入状況は明らかでない。(永田慶十三、赤座励両中尉も出動していたであろうがつまびらかでない)
第二攻撃隊集団の天山艦攻隊に多田芳大中尉が小隊長として参加した。この集団の叫隊が石垣島南方の敵群を捕捉したが、大部分は目標を得られなかったために攻撃を断念して台湾の基地に転進した。 多田中尉が属した天山隊は、集団の後方にあって進撃している途中思いがけず敵を発見した。前方進撃の集団のどの隊もこの敵を発見していないので、多田小隊と僚隊だけが、昼間しかも単独で敵輪形陣の某月中に突入することになった。そして強襲したが多大な損害を被り、多田小隊長機の最期も僚機の状況も不明である。 この日( 四日)T攻撃に充当された兵力は、わずかに約五〇機であり、これらは九州各基地から発進した。攻七〇八の沢柳彦士中尉はこの隊の直協隊指揮官として参加、抜群の功績を挙げて感状を授けられている。
一二日の攻撃に参加して台湾に転進していた攻五〇一の雷裳銀河隊(二機)加藤正一と日向大実の両中尉もこの攻撃を知り台湾から参加した。 攻撃隊が鹿屋発進までに知らされていた敵の位置は、石垣島南西海面と鷲らん鼻東方海面に各二群があるといぅ一般情報であって、午後−時に発見された石垣島南西方及び南方の空母各五隻を含む敵について彼らが知っていたかどうか明らかでない。 本隊が久米島上空にさしかかつた午後四時三二分ごろに偵察隊の彩雲が敵を発見報告してきた。その後七時少し前に銀河索敵隊が、そしてその二じ分後に直協隊指揮官の沢柳中尉機がそれぞれ敵発見を報告した。直協隊に続いていた攻七〇八の陸攻四機が予想戦場に到着したとき、左前方に敵の防空砲火らしいものを認めたので附近を捜索したが発見できなかった。同じ飛行隊の他の一機が、沢柳機発見の目標を捕捉し、その壷に雷撃を加えたが、その効果は確認されていない。 台湾からこの攻撃に特別参加した加藤正一中尉と日向大美中尉の銀河二機は、台南基地から山東射いったが、加藤機は、発進後連絡なく、行方不明となってしまった。 日向機は、午後八時二四分に鷲らん鼻の〇七〇度三二八浬の敵を発見し、その中の特設空母らしいものを雷撃した。その後、その南西三〇浬の海面に別の機動部隊が所在するらしい高射砲弾の炸裂を認めて、その旨を打電して帰途に就き、午後一〇時台南基地に帰った。 帰還した日向中尉から報告を受けた第一四聯合航空隊司令官は、次のとおり全軍に電報している。 《攻撃第五〇一飛行隊日向中尉発見ノ敵機動部隊ノ位 置、第一群二〇二四鷲らん鼻七〇度二二八浬、第二群 二〇四五鷲らん鼻七〇度一九六浬、高角砲弾ノ炸裂、 第一群特設空母ランイモノニ魚雷命中、撃沈概ネ確実》 この日向中尉は、翌日再び出撃して戦死したが、その最期は残念ながら明らかでない。 沢柳機は、七時四〇分火柱五本、八時に二本を確認したほか、艦種不詳艦船一隻炎上中を確認し帰還した。 この日のT攻撃部隊の未帰還機は二七機であり、米資料による米側被害は、《空母ハンコックが水平爆撃機に、軽巡ヒューストンが攻五〇一の航空機によると思われる魚雷で大被害を被り、同じく「リーノ」が体当り機で被害を受け、駆逐艦コーウエルが衝突した》となっている。
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