(戦況) 「あ」号作戦の結果、彼我の相対航空戦力の懸隔は、いよいよ増大して、進攻兵力の根源である敵機動部隊に対抗するには、もはや常用手段は適用できず敵の意表を突く方策に活路を見出すほかないと考えられるに至った。 そして敵空母群の強力な防禦綱を突破するため、この時期、日本に来襲する台風(TYPHOON)に着目し、その悪天候を逆用して目標上空に到達、奇襲するという発想が採用された。 残っているベテラン搭乗員を基幹として、これに経験は浅いが優秀な若い搭乗員を加えた特別編成部隊(指揮官久野大佐)にこれを実行させることになり、直ちに特訓に入った。この部隊を《T攻撃部隊〉と呼称した。「T」というのは台風の頭文字とも又は魚雷の頭文字ともいわれている。このT攻撃部隊に参加した期友は次のとおりであり、米印は生存者を示す。高橋武治は九月上旬発病入院し、この作戦に参加できなかったという。 この部隊が初出動したのは一二日であるから、十分な訓練のいとまなく突入することとなり、初日にしてその兵力を損耗してしまったのである。 一二日の午前○時少し過ぎ、このT攻撃部隊に出撃命令が出て、当初計画の沖縄基地での燃料補給を変更して、直接鹿屋基地から出撃し、攻撃終了後には台湾基地に帰投することになった。 〈この日は、T攻撃部隊の成果を示すにふさわしく、台湾南方遥か洋上に台風が北上していたと公刊戦史叢書の関係版は述べているが、皮肉なことにこの台風を活用したのはむしろ敵側であり、彼らはこの台風を《ゼロ部隊〉と呼称して、前述のとおり日本軍哨戒機に発見されることなく近接していたのである。 T部隊の攻撃は、索敵隊の出動に始まり、その誘導にょり、攻撃隊は各飛行隊ごとに進撃している。しかし、これらの協同連携は、敵情の把握不十分で思うにまかせずいたずらに各個撃破される結果となった。米軍の据影した次真の写真が遊撃の凄惨さを物語っている。準細いS字線は台湾沖に夢幻的な白光を画いて散る日本機の最後〉と説明してある。 攻撃に参加した機の多くは未帰還となり、攻撃後脱出した機もばらばらに台湾の基地にたどりついているので、その報告も遅れ戦果報告にはかなりの重複があったものと考えられる。にもかかわらずその判定を誤った司令部の行なった作戦指導は、爾後の作戦に大きく影響したのである。 この日の戦果は、ぼう大なものと発表されていたのであるが、戦後米側の資料によると、戦死した者にとってはまことに残念なことであるが、衝突事故によって駆逐艦一隻損傷》だけであった。これに反してわが末帰還機は五四機となっている。
一二日午前一〇時半に攻七〇八の柘植勝彦中尉の銀河一機と偵一一の彩雲三機合計四機からなる第一段索敵隊が、続いて第二段索敵の銀河二機が鹿屋基地を発進し、敵をもとめて南下していった。攻撃隊は午後一時に発進したが、この隊が沖縄西方に到達したちょうどその頃(午後三時頃である)、先発の柘植中尉機から敵発見の第一報《敵見ユ、空母ノ在否不明、地点鷲らん鼻の一六六度一二八埋、一五〇〇》が打電された。この敵に「五イサ」と名前がつけられている。 第一報に次いで、空母の存在を示す第二報の入電が期待されていたが、敵遊撃先頭機に遭遇奇襲されたのであったろうか、柘植中尉機はその後消息を絶ってしまった。この目標に後続の攻撃隊が陸続として夜間攻撃に向った。 偵察泰の柘植機からの散発見の電報を受けた一時間後、与那国島の上空に到達していた海岸照順中尉などの直協隊一式陸攻七機は、後続する攻撃隊の直前偵察に任ずるため、午後四時五五分、同島の南方海面に対し索敵配備に就き南下を始めた。その直後、指揮官茂木大尉機(七十期)から内鷲らん鼻の八二度一三八浬ノ敵二触接》、続いて《一七二〇、敵部隊発見》と同時に炎敵戦闘機四機ノ攻撃ヲ受ケ、交戦中》なる旨の電報があった。
直協隊は三区隊に分れ、第二区隊は指揮官機の西側を、海岸中尉指揮の第三区隊は東側を飛んでいたらしい。西側の第二区隊二番機は、台湾に帰着したのであるが、この時、〈敵戦髄機四機ノ奇襲ヲ受ケ、二番機ガ自爆シタ〉という報告及び〈一番機ガ一八二〇被弾、右発動機ホトンド停止、重要物ヲ投下シツツアル》旨を打電しているのを聞いている。この一番機とは、二区隊長機であろう。三区隊長の海岸機は、索敵配備に就いて以後何らの連絡状況も確認されておらず、敵戟関機の奇襲を受けたのであろう、その最期は確認されていない。 午後六時四〇分になって指揮官機から《敵発見》電があり、続いて七時の敵附近の天候状況報告、更に《二〇四五、吊光投弾ヲ投下スル》旨の報告があったが、この指揮官機もその後消息を絶ってしまった。
攻撃隊は、薄暮の好機を捕捉するため、与那国島上空で時間待ちをしていたが、直協隊が発見電を打電した直後の午後五時三〇分に、川戸浩、伊藤正臣両中尉の属する攻七〇八の陸攻八機が敵空母を目ざして一路南下を始めた。これと前後して攻五〇一の銀河一八機には藤野昌司、加藤正一、同正雄、日向大美、畠山信の五期友が轡を並べて、また攻七〇三の陸攻二八機には安達裕と小島威両小隊長が参加してそれぞれ予想戦場に針路を向けていった。 同夜の天候は、半時で必ずしも夜間飛行に良好な気象ではなく、敵戦闘機の妨害と天候の障害を突破しっつ敵機動部隊の頭上に殺到したのであるが、この敵は、レーダーで逐一我が動静を把握し、それを無線電話で遊撃戦閣機に知らせ、行動を逐一指令するCICシステムを持って迎えていたのであり、しかもその対空弾には強大な威力を持つX↑信管が装備されていた。その結果は、残念ながら、最近放映の米フイルムでご覧のとおりである。 川戸浩と伊藤正臣雨中尉は、共に攻七〇八の攻撃隊小隊長で、午後六時二五分ごろ戟場に到着している。僚機は陸攻入機であり、夕闇の海上に敵をもとめること三〇分間、遂に敵部隊を発見し、七時に編隊が解かれ攻撃に移っていった。このうちの一機が七時四九分鷲らん鼻の七〇啓二四七浬の空母を攻撃し、命中弾を与えたと報告しているが、滑揮官を含む合計七機が未帰還となり、攻撃状況や戦果は明らかでない。ただ一機の帰還機が目撃した艦種不詳の轟沈三隻や火柱は、これら未帰還機の戦果とみられていたのであったが、実態は前述のとおりであり、この両小隊長機も散開以後連絡を絶ったままで、今も南海の海底に眠り続けているのである。
藤野昌司中尉のほかに加藤正雄、同正一、日向大実の各期友が小隊長として参加しているが、藤野中尉だけが未帰還となった。この日帰還した三期友も二、三日後にそれぞれ再び出撃して行き、後述のとおりいずれも行方不明となっている。 前出の攻七〇八の攻撃隊より約二〇分遅れの午後六時四〇分に、この隊の銀河二二機(うち一機は直協任務)が敵情不詳のまま戦場に到達し、索敵配備に就いた。 約一時間の間、予想海域を懸命に捜索したが、敵を発見することができず、攻撃を断念した各機は、七時三〇分以降、指揮官に引き続いて漸次戦場を離脱して帰途に就き、八時三〇分から約二〇分の間に両加藤中尉と日向中尉が台南及び高雄の基地にそれぞれ帰着した。しかし藤野中尉機を含む六機が散開線に就いた後、連絡なく未帰還となっており、彼の最期の詳しいことはわからない。 攻七〇三の攻撃隊の陸攻一九機の戦闘状況については、資料がないが、午後七時二〇分から約一時間にわたって攻撃したことが明らかであり、その戦果は不詳と公刊戦史叢書関係版に記述されている。 期会誌には、この攻撃隊は、午後一時に宮崎基地を発進して、七時敵主力を発見した》となっており、安達小隊長は《雷撃終了後、被弾のため火災を発生しっつも敵艦艇に体当りを敢行》し、小島威中尉機は 《敵夜戦の襲撃を受け、それと交戦し二機を撃墜、自らも被弾し第四六分隊の伍長 図書係たが、操縦困難をおして雷撃を敢行後、火災を生じ自爆》したと記録されている。 いずれも壮烈な最期であったと
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