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千島方面での作戦
山田蒼和

海軍大尉 山田蒼和の戦歴

伊勢 39期飛学生 築城空 五五三空 攻二五ニ
ー九年八月二九日戦死 二二オ
府立第八中学校
父七司 母初枝
第九分隊の剣道係 弥山係
 
 この方面に配備されていた第一二航空艦隊は、捷号作戦計画の一環として主配備正面を今までの千島から撤して北海道に転換し、八月中旬その転進を完了した。
 
 この航空艦隊の任務は、千島、北海道東方海域の哨戒と海上交通路の保護であり、同時に術力の急速錬成に努め、来るべき比島方面第一線部隊の後詰めとなることが期待されていた。こ山田蒼和中尉もこの部隊に配属された一人であり、実戦配備の日施哨戒及び毎日の錬成に従事している。

 八月三一日は米機動部隊が小笠原諸島に来襲した日であるが、その直前の二九日に山田中尉は、日施哨戒の任務を受け第一占守基地を午前九時三〇分発進し、搭乗機艦攻をもって基地から一二五度方向の哨戒線を進み、六〇〇浬進出の予定であった。

 しかし、同機は、基地発進後一回の連絡もなく消息を絶ってしまった。連絡のいとまもないほどの緊急事態の発生であったのであろうか、北海の夏の海にその最期を遂げた。

 この部隊には七月一日付で多くの期友が配属され、一〇月中旬になって始まった台湾沖航空戦以後、九州方面に進出したのであるが、沖縄、台湾を基地とした航空戦で多くの犠牲を出し、残った者も更に比島に進出し、ほとんど散華してしまった。