時移って彼は海軍中尉、第八〇一航空隊の飛行艇機長となっていた。捷号作戟が発令されてから、橋本邦一中尉とともに T攻撃部隊の索敵隊に編入され、台湾、比島方面で連日連夜にわたって長駆哨戒に、索敵触接に出動するとともに作戦輸送に任じていた。
一一月一九日のルソン各地はこの日も敵大編隊の来襲を受け、損傷修理のため内地に回航中の熊野(吉田邦雄乗組)がマンシロック沖で銃爆撃を受け、サンタクルースに避泊していた。
一一月一八日には台湾の東港におり、この日比島東方の夜間索敵を命ぜられ、午後八時五〇分に基地を発進して基準線七八号を、一番線九三号担当の僚機長谷部文太郎少尉とともに索敵に従事した。基地出撃後、西田機は何の連絡もなく行方不明となった。
前日行なわれた西田中尉等の索敵によっても発見されなかった敵機動部隊はマニラの北東約二〇〇浬附近にあり、空母三〜四隻を基幹としていた。この目標に対しT攻撃部隊残存隊の一式陸攻六機、銀河五機、陸軍の四式重爆四機がこの日の午後三時に台南基地を発進し、薄暮時から夜間にかけての攻撃に向い、攻五〇一の畠山信中尉が参加した
わが攻撃部隊の攻撃を受けたのはモントゴメリー少将の空母隊、ホーガン少将隊及びデーヴィツト少将隊のうちのどれか一か隊であった。畠山信中尉の銀河も午後六時頃に敵を発見して勇猛果敢な攻撃を行なった。それはルソン各地を攻撃して帰って来た最後の攻撃隊が母艦に着艦し始めた時であり、その虚をついたわが攻撃隊は四〜五機のグループに分れて合計一一回の反復攻撃を敢行した。未帰還一〇機を出したが、当時報告されたような戦果を米資料は伝えていない。 台湾沖航空戦以来活躍し続けていた畠山中尉も帰らぬ人となった。戦死後二階級特進。
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