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兵学校1号時代作製の真継不二夫撮影写真集での71期の顔・3人衆
 
八島準二(105) 、小島 威(112)、西田 潤(173)

1 台湾沖航空戦 九州からの索敵

偵察第3飛行隊  
海軍大尉八島準二の戦歴 
  扶桑 香取 40期飛学生 偵3
  19年10月12日 戦死 23歳
  県立青森中学校.
父(死亡) 母きく.
  第4分隊の相撲係 馬術係
 
 聯合艦隊司令部から基地航空部隊に対して「捷1、2号」作戦発動が令せられ、各航空隊は、敵情の正確な把握に努めていたところ鹿屋から発進した索敵機が12日の夕刻までに敵の空母部隊3か群を発見、報告してきた。
 
 この索敵に参加した偵察第3飛行隊(偵3)の八島準二中尉は、二式艦上偵察機の機長で後席に西川隆雄2飛曹を乗せ、午前7時単機で鹿屋基地を発進、沖繩小禄飛行場で燃料を補給した後午後1時同地を発進したが、その後連絡なく未帰還となった。同機の索敵線は、進出距離が400マイルと判明しているが、進出方向は残念ながら不明瞭である。
 


2 台湾沖航空戦 T攻撃部隊の初出動

攻撃第七〇三飛行隊 
海軍大尉小島 威の戦歴
 山城 武蔵 40期飛学生  攻七〇三
一九年一〇月一二日戦死  二二オ
 県立鉾田中学校(茨城) 
父奄 母ひさ
 第二一分隊の柔道係 相撲係 


 攻七〇三の攻撃隊の陸攻一九機の戦闘状況については、資料がないが、午後七時二〇分から約一時間にわたって攻撃したことが明らかであり、その戦果は不詳と記述されている。
 
 期会誌には、《この攻撃隊は、午後一時に宮崎基地を発進して、七時敵主力を発見した》となっており、安達小隊長は《雷撃終了後、被弾のため火災を発生しっつも敵艦艇に体当りを敢行》し、小島威中尉機は 炎敵夜戦の襲撃を受け、それと交戦し二機を撃墜、自らも被弾したが、操縦困難をおして雷撃を敢行後、火災を生じ自爆》したと記録されている。いずれも壮烈な最期であったという。



3 レイテ増援作戦 台湾からのT攻撃

攻撃第501飛行隊 海軍大尉西田 潤の戦歴
 日向 武蔵 40期飛学生 九五三空 佐伯空 八〇一空
一九年一一月一八日戦死 二二オ
県立成東中学校(千葉)
父新 母なか
第三〇分隊の通信係 みせん係
 
 時移って彼は海軍中尉、第八〇一航空隊の飛行艇機長となっていた。捷号作戟が発令されてから、橋本邦一中尉とともに T攻撃部隊の索敵隊に編入され、台湾、比島方面で連日連夜にわたって長駆哨戒に、索敵触接に出動するとともに作戦輸送に任じていた。
 
 一一月一九日のルソン各地はこの日も敵大編隊の来襲を受け、損傷修理のため内地に回航中の熊野(吉田邦雄乗組)がマンシロック沖で銃爆撃を受け、サンタクルースに避泊していた。
 
 一一月一八日には台湾の東港におり、この日比島東方の夜間索敵を命ぜられ、午後八時五〇分に基地を発進して基準線七八号を、一番線九三号担当の僚機長谷部文太郎少尉とともに索敵に従事した。基地出撃後、西田機は何の連絡もなく行方不明となった。
 
 前日行なわれた西田中尉等の索敵によっても発見されなかった敵機動部隊はマニラの北東約二〇〇浬附近にあり、空母三〜四隻を基幹としていた。この目標に対しT攻撃部隊残存隊の一式陸攻六機、銀河五機、陸軍の四式重爆四機がこの日の午後三時に台南基地を発進し、薄暮時から夜間にかけての攻撃に向い、攻五〇一の畠山信中尉が参加した
 
 わが攻撃部隊の攻撃を受けたのはモントゴメリー少将の空母隊、ホーガン少将隊及びデーヴィツト少将隊のうちのどれか一か隊であった。畠山信中尉の銀河も午後六時頃に敵を発見して勇猛果敢な攻撃を行なった。それはルソン各地を攻撃して帰って来た最後の攻撃隊が母艦に着艦し始めた時であり、その虚をついたわが攻撃隊は四〜五機のグループに分れて合計一一回の反復攻撃を敢行した。未帰還一〇機を出したが、当時報告されたような戦果を米資料は伝えていない。 台湾沖航空戦以来活躍し続けていた畠山中尉も帰らぬ人となった。
戦死後二階級特進