(戦況) 一〇月二六日の深夜から二七日早朝にかけて、避退中の小沢部隊、栗田部隊及び志摩部隊を追跡するであろう敵機動部隊及び潜水艦をもとめて、航空部隊が索敵攻撃に当った。八〇一空の橋本邦一中尉は、香川県の詫間基地から小沢部隊を追跡する敵をもとめ、また九〇一空の横尾一中尉は比島のキヤビテ水上基地から、比島東方海面の敵をもとめてそれぞれ発進した。彼らは、いずれも飛行艇の機長であった。 二六日特攻隊及びそれ以外の部隊も引続き敵機動部隊及びタクロバン基地を攻撃したが、戦果を挙げることなく多くの未帰還機を出してしまった。 橋本邦一中尉は、二七日午前四時三七分詫間水上基地を発進したが、天候不良のため不運にも愛媛県長浜附近の山中に墜落して機体は大破、搭乗員総員死亡し、後日戦痛死と認定された。地味な作戦であり、戦い敗れて避退する友軍への懸命な支援がこのような結果に終り彼らの無念の心情察するに余りある。 捷号作戦発動後、T攻撃部隊に配属され、西田潤中尉らと共に台湾、比島に進出し、連日連夜の哨戒、索敵、触後に挺身し、作戦輸送に当たり、戦い終って詫間基地に帰隊していたやさきのことである。パートナーの西田中尉もー一月中旬、台湾から索敵に出て行方不明となった。この基地では、別な飛行隊に坂崎孝幸、佐々木久弥両中尉が同様飛行艇の機長として活躍していた。 比島キヤビテに進出していた九〇一空の横尾一中尉は、マニラ東方の敵機動部隊をもとめて二六日の夜九時三〇分に九七式飛行艇に搭乗して基地を発進していった。翌二七日未明、《天候不良、索敵コースヲ右廻リス。00三〇》と打電し、その後一時間の間は本隊との連絡を保っていた。 索敵海面は敵夜戦(夜間戦闘機)の行動する海域でありその奇襲を受けたのであろうか。その後連絡を絶って帰らなかった。道口俊夫中尉などが、同じょうな最期を遂げた海域であり、それまで共に作戦しでいた横尾機もその後を追ったのである。 期に対潜水艦戦専門に新編された航空部隊で、当初は飛行艇を主としたものであった。道口俊夫、本多行各中尉などと共に横尾中尉もこの航空隊に所属していた。台湾沖航空戦のころからはレーダーを装備しているこれらの飛行艇が夜間の索敵にもしばしば使用されていたのである。
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