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母艦攻撃隊の出撃
(第六五三航空隊) 小松正文 & 井上 至


海軍大尉 小松正文
 
山城 扶桑 39期飛学生 霞空 攻二六三
一九年一〇月二四日戦死 二二オ
 県立高松中学校(香川) 
父母 (死亡)
 第一分隊の体操体技係  遊泳係



海軍大尉 井上 至
 
山城 陸奥 40期飛学生 筑波空 戦一六五 戦一六四
 一九年一〇月二四日戦死 二〇オ
 県立宮崎中学校 
父築 母ユキミ
 第四一分隊の体操体技係 馬術係

  (戦況)
 
 二二日、駆逐艦に燃料の補給を終えて南下していた小沢本隊は、二四日の朝にはマニラの北東約四〇〇浬に達し、敵機動部隊との会敵を予期して索敵機を発艦させた。
 
 この索敵機からの敵発見報告を待っていたが、なかなか入らず、それを待っていては戦機を失すると判断した長官は、九〇一空の索敵機が午前九時少し前に発見したマニラの八五度一六五浬の空母四隻を含む目標に対し、零戦三〇機、戦爆二〇機、聾星二機、天山六機合計五八機からなる攻撃隊の発進を命じた。
 各艦より発艦した攻撃隊は、一一時四五分ごろ各艦ごとにまとまり発進して進撃した。この攻撃は、日本海軍にとって母艦発進攻撃としては最後の組織的なものとなったのである。
 
 瑞鶴攻撃隊には、六五三空の攻二六三分隊長小松正文中尉が天山艦攻で攻撃隊の先頭を誘導に任じ、同じく戦一六四分隊長の井上至中尉が零戦直掩小隊長として敵戦闘機の奇襲を警戒しっつ後方上空を続航していった。その状況は下図のとおりで、「六五三空戦闘詳報」に詳細記述きれている。
 
 この攻撃隊が高度四二〇で進撃中、他艦の攻撃隊より五分早い戦後」時に、前方雲の上に機数は不明であったが敵機を発見、井上中尉たちの直掩隊は直ちに突進して空中戦に入った。

 その間に爆撃隊は、進撃を続けて間もなく、導中の天山誘導隊小松機が敵空母部隊を発見、《空母ヲ含ム敵部隊見ユ、空母数不明。地点ツイ2イ》と打電した。位置はマニラの七〇度一二〇浬である。一方、同航していた瑞鳳、千歳、千代田の各攻撃隊は、この敵空母群を発見する前に敵戦闘機に捕捉されてしまっていた。

 瑞鶴隊が雲の大きな切れ目から敵影を認めたのは午後一時五〇分で、敵は正規空母二隻、特設空母二隻その他 2直衛艦数隻からなっていた…爆撃隊は、間髪を入れず雲の隙間から空母目がけて、次々に急降下に移り、正規空母一隻に二発、他の一隻に一発の命中弾を認め、空母は黒煙、その他は白煙に包まれたと報告している。
 
 戦後の米資料によるこの時のわが攻撃状況は、《一群の敵機はシャーマン隊の北東四五浬でレキシントンの叩に撃墜された。もう一つの大編隊がレーダーで北東九〇浬に探知され、そのうちわずかのものが空母上空に達して、六〜八機の爆装戦闘機がレキシントン、エセックス及びラングレイに急降下爆撃を行なったが、効果はなかった。三機が空母至近で撃墜された》と記述されている。
空母上空に到達すること自体が実に大変なことであったと言わざるを得ない状況である。この時剥この空母群の南東二〇浬附近で信田、佐野雨期友などが攻撃した空母プリンストンが炎上していたわけである。
 
 攻撃終了後は予定に従い空母に帰ったものはなく、爆撃隊の一機が高雄基地に帰ったほかは、大部分は瑞鳳隊と同時刻にルソン島アパリとツゲガラオ基地に到着した。
      
 この日の瑞鶴隊の被害は、雨期友を含め、天山一機(小松機)、零戦二機、爆撃機五機であり、敵一機を撃墜しただけとなっているが、未帰還機の戦果は確認できないため入っていないのであろう。

 「六五三空戦聞詳報」には、《小松正文中尉は行方不明、井上至中尉は比島に向う》 と記録されている。井上至中尉のその後については不明で、戦死公報はこの日戦死となっている。非島方面に向って飛んでいくのを帰還者が認めたので、《比島二向フ》という表現になったのであろう。フィリピン島の何処かの基地にたどり着いたのか、或はたどり着けなかったのか。知る資料は見当らない。
 
 小松中尉は 内行方不明》であり、進撃中に単機で先頭を切って誘導していたので、真っ先に敵の襲撃を受けた可能性が高い。
 
 彼らが瑞鶴の飛行甲板を発艦する時、それを見送った金丸光と石丸文義の気持は、実に複雑であったと聞く。《征くも死、留まるも死》、果してその翌日敵の大空襲で瑞鶴以下の空母全部が撃沈され、多くの犠牲者を出している。幸い
乗り組んでいた金丸光石丸文義の二人の期友は救肋された。

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