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飛行艇の夜間索敵
(第九〇一航空隊) 道口俊夫


海軍大尉 道口俊夫

山城 39期飛行学生 小松空 九〇一空
19年10月23日戦死 22歳
県立呉第一中学校 
父(死亡) 母ツタヨ
第40分隊の小銃係、相撲係 校庭係

 敵に一大打撃を与えて、戦局を有利に展開しょうとする基地航空部隊は、二五日に予定された栗田部隊のレイテ突入の必成を期するため、目ざす敵機動部隊の位置確認に努力してきたが、天候不良に災いされて遂に発見することができなかった。
 
 敵情は、このように不明でその位置を確認していないが、進撃中の水上部隊のことを思うと一刻の猶予も許されず、二三日第一攻撃集団の約一五〇機が出動したが、敵を発見することなく帰投した。

 福留二航艦長官は、二四日に予定されている総攻撃に期待を寄せ、前夜マニラ東方海域に対し三機の九七式飛行艇からなる夜間索敵隊を発進させた。この索敵に九〇一空の道口俊夫、有多行両中尉が参加、出撃していった。それまでにも、彼らは夜間索敵に連続出動して休むいとまもなかったことが「九〇一空戦闘詳報」に記録されている。

 全軍の期待を担って、午後一〇時過ぎから一一時過ぎにかけ、マニラの水上基地を出撃していったこの三機の行動は上図に示すとおりである。各機はそれぞれ夜のジャングル上空を越えて進み、洋上に出ると雲がなくなったが、なお千米の高さに断雲が散らばっており、視界は余り効かず一〇粁、海上は波立っていた。

 一番南のL二二番線を飛んだ道口機は発進後消息を絶ったが、中央のL一八番線の香田機が敵を発見して待望の第一報を送ってきた。しかしこの香田機もこの後、通信を絶ってしまった。道口機と共に、レーダーで誘導されていたであろう敵夜戦に捕捉され被弾自爆したのであろう。夜間のことで全くの奇襲であろうし、基地に連絡する暇がなかったと思う。

 一番北のL一四番線を飛んだ本多機は、二四日一時ごろになって、レーダーが故障となり、目視で索敵を続けていたが、三時半ごろ第四発動機が焼損してしまい、索敵を中止し台湾の東港基地に向け脱出した。この本多中尉もその後連続出動しているが、20年1月15日後述するやうに高雄の近くを航行中の船団護衛中に来襲の敵機と交戦し被弾自爆している。

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