(戦況) 二九日未明に発見された敵機動部隊攻撃のため、神風特攻隊六か隊の総計一四機が、直掩戦闘機七機に護衛され七グループに分れて出撃した。この特攻隊には団野功雄中尉と藤本勇中尉の両期友が七十扁では初めて参加、敢然として大義に殉じた。その後、この雨期友に続き終戦時までに突入したのは前述のとおり二九名の多きに達したのである。 この日の戦果は、空母イントレピットに神風特攻隊が突入、死傷…名を出した〉 と米側の記録がある。入した各特攻隊に対しては聯合艦隊司令長官からそれぞれ〈感状〉が授与され、その状況は防衛研修所戦史室発刊の公刊戦史叢書1沖縄方面海軍作戦」に収録されている。 攻一〇二の団野功雄中は至誠隊の隊長であった。毎日新聞社出版「あゝ、海軍航空隊」にこの至誠隊月が突入二日前に基地で撮影した最後の写真が掲載されている。 団野功雄中尉は、攻一〇二の分隊長、二九日の突入時には九九艦爆三機を率いて直掩戦闘機の掩護もなく、午前九時四五分に比島ニコラス基地を発進してレイテ湾内の巡洋艦攻撃に向ったのである。午後四時五八分になって −−炎敵空母二隻見ユ》を発信後に攻撃を敢行したのであろう、連絡を絶った。 一〇三の藤本勇中尉は、団野中尉や後出の土屋中尉などと同じ飛行隊附で北海道方面から比島に進出して連戟してきた。その状況は、同隊の戟闘詳報に明らかにされており、その間に多くの期友や戟友を失っていた。 その彼も二九日には神兵隊長として聾星艦爆三機を率い、後席偵察貝伊藤立政1飛曹と午後三時ニコルス海岸滑走路を出撃し、琴友高橋進の率いる直掩戦闘嘩三機の護衛を受けて、マニラ東方一九〇浬の敵空母部隊の攻撃に向った。 進出の途中レガスピーの〇三七度九〇浬において、敵グラマン戦闘機四機と遭遇したので編隊を解き分離させ、自らは単機で進撃して、マニラの〇八〇度二〇〇浬で、 内我レ空母二突入ス》を打電したのち午後四時五八分に突入した。分離後の部下二機は、突入することなくこの日は帰投している。 |