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厚木基地から帝都防衛 

第三〇二航空隊 入江静則

海軍少佐入江 静則の戦歴

 伊勢一根附(在ブイン)
  40期飛学生 三〇二空
 一九年一二月一五日戦死 二三オ三月
 県立姫路中学校(兵庫) 父頗夫 母みさを
 第一五分隊の軍歌係

  (戦況)
  一二月一五日は朝から雲が低く雨が降りそうであった。B29北上のレーダー情報で寺村純郎たちは指揮所でその来襲を待っていた。甲直−小隊長入江静則大尉、乙直−小隊長寺村純郎大尉(各直とも雷電局地戦選一二機)である。(甲直発進〉でー二機は離陸、雲間をぬって上昇した。

  その日のレーダー情報は、あやふやで単機か多数機か、あるいは関東地方に来たか、名古屋へ向かっているのかも不明であった。全く「雷電」のような翼面荷重が大きく不安定な飛行機には雲は苦手であった。入江からエンジン不調、着陸するとの電話が入った。この天候でエンジンがストップすれば、不時着はまず命がけである。

 〈早く帰って来ればよいのに〉と寺村は思っていると、雲の切れ目をぬって1機の雷電がすべり込んでくる。脚が出ていないので赤旗を持った搭乗員達が着陸地点に走って行った。いないので赤旗を持った搭乗員たちが降着地点に走って行った。赤旗を見た雷電は、エンジンを一杯にかけて着陸をやりなおすため旋回を始めたその時、エンジンが止まったと見えてスーッと相模空の格納庫の向うへ墜ちて行った。なぜエンジンの調子が悪ければやりなおさず脚のないまま滑り込まなかったのだ、そうすれば完全に助かっていたのに。そしてエンジン不調で飛行場にすべりこんでくる飛行機に赤旗なんか振るやつがあるかと何物にも向けられない憤りが胸にあふれてくる。生きていてくれればよいがとそればかり願った。

  入江の死は、戦死でなかったので公報できないし、遺族へ知らせることも出来ず、海軍葬もやらなかった。二時間も待たぬうちに入江の体は灰になった。まだ温かいその骨壷を胸にいだいて自動車に乗る。なぜか涙は流れない。薄暗くなった田舎道を厚木の隊へ走っていく。表の涙も出ないのはやり切れないほど淋しかった。

 半年前に厚木に着任してから、毎日の訓練に多くの人たちが死んで行った。一緒に着任した同期生の中で六人は転勤していったが、この中の三人は既にに此島で、あるいは硫黄島で戦死していた。
 
 そして厚木では、九月に同室の上野をやはり雷電の不時着で失ない、上野のあとに私の部屋に移ってきた月光の森本を一〇月に失っていた。森本の殉職で私の部屋のベットはあいていたが、もう誰も入れる気はしないし、入りたいという者もいなかった。入江は隣りの部屋のまま、いつも一緒に酒を飲み一緒に飯を食った。上野と森本の二人の同期生の海軍葬を、そtて遺品の整理を共にやった入江は、いま小さな骨壷の中に入って私の膝の上にあった。
 
 悲惨な死体の多い飛行機乗りの死の中で、彼の体は生きている時そのままの椅麗な体であった。そして今は私の胸に抱かれた小さな骨壷の中の骨だけになってしまった。まだ暖かいお骨の熱がほんのりと手につたわってくる。教育を共にし、職業を共にし、お互いに心の隅々まで知り合っていたクラスメート、その最後の一人を失ってしまった。そして私が死んだらいったい誰が私の骨を拾ってくれるだろうか。(寺村純郎著「東京空戦記」から抜粋)

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