(戦況) 一一月二八日夕刻、第六次多号船団がオルモックに突入して揚搭に成功した。この夜は水爆隊、夜戦隊竺四機が終夜連続出働して出没する敵魚雷艇を攻撃し、船団の突入を支援することになった。話は別になるが、この日就役直後の新鋭空母「信濃」が遠州灘を西航中米滞により撃沈されるという我が軍にとって手痛い事態が発生していたのである。 二九日朝、カリガオ水道を敵魚雷艇約四〇隻が北上中であるとの報告が入った。ちょうどオルモックに向う次の第七次船団が航行中であったので、同夜から一二月三晶明まで、四回次に分けて水爆隊と夜戦隊により組織的な魚雷艇狩りをオルモック車万のカモテス海で展開した。 第一夜の二九日には、偵三〇一の岡俊夫中尉が水爆「瑞雲」で出撃、六三四空宮本平治郎中尉を含む僚機と協同し二隻を撃沈したが、岡中尉機は被弾したのであろうか翌朝一時三〇分オルモック湾に不時着した。その後消息が絶えその安否が心配されていたが、一二月二三日になって、オルモック基地の発信で、《便アリ次第帰隊ス》との連絡があり、その生存が判明した。一二月下旬という時期は輸送も終焉しオルモック市街も既に敵の手中に陥ち、同基地は山中に孤立する状態になり始めていたので、彼の帰還はほとんど絶望的であった。 終戦後になってもどこの収容所にも彼の姿は見られなかった。山中にこもった後、所在の陸軍部隊又は海軍部隊とともに奮戦して戦死したものとしか考えられない。 この後も魚雷艇狩りは続行され第二夜には四隻、第三夜には三隻の撃沈という戦果を挙げ、第四夜の一二月二日には六機で出撃し一隻を撃沈Lたほか、輸送船二隻撃沈、一隻撃破と報告されている。
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