偵一〇二の分隊長佐川潔大尉は撃星型偵察機の搭乗員で西尾漸と共に比島方面で局地偵察に従事していた。 二月一〇日、レイテ湾内の敵艦艇偵察、タクロバン及びブラウエン基地の写真偵察のため午前九時パンパン基地を発進し、出発後一〇時までは連絡を保っていたが、その後消息を絶ってしまった。基地発進から一時間後のことであるから時速二〇〇ノットとすれば、レガスピー飛行場附近に到着していたのであろうか。 戦三一五の岡田幸平大尉についての資料も見当らない。一九年七月一〇日の日附で横空から多くの期友と共にこの飛行隊所属となり、一〇月中旬大畠敏雄中尉などとともに台湾沖航空戦に初陣したことと考えられる。その大畠中尉なども一〇月二四日マニラ東方海域の攻撃に参加戦死している。 その後一一月一五日附で鮎川幸男中尉がこの隊に着任したが、この期友も・二〇日後に特攻で戦死し、その骨を岡田大尉が拾ったのであろう。常に第一線に立っていたであろう岡田大尉の最期が〈一二月一〇日ツゲガラオ基地で戦死〉と記録されているだけで、その詳細を知る資料もなく、語ってくれる人もいないのは何としても淋しいことである。彼が期友や部下の骨を拾ってやった後、彼の骨を拾ってくれる者もなく、その最期を伝える者もなかったのである。 富岡市在住の実兄良一氏に問い合わせたが、やはり詳しいことを承知しておられなかった。二二年に戦死公報があったとのことであるが、初めは台湾方面において行方不明という連絡であったという。どのような闘いをしたのかぜひ知りたいと努めたが結果は以上のとおりを出なかった。 |