(戦況) のころ支那奥地にあった散大型機の活動が活発となり、一一月二言大村地区及びその対岸の上海地区に空襲があった。大村にはB29約一〇〇機が飛来、三五二空の戦闘横隊第二小隊長坂本幹彦中尉の率いる遊撃隊が佐世保基地を発進した。 この邀撃隊は、敵機を捕捉してこのころ新しく開発された三号爆弾で反復攻撃し撃墜三機、火を吐かせたもの一議、黒煙を吐かせたもの七機、命中弾を与えたの一七機という大戦果を収めた。坂本隊長は、なおも徹底的戦果を収めようとし、機銃弾が無くなるや午前一〇時三〇分ころ壮烈な体当たりを敢行し、故郷(唐津市)に近い空で散華した。 この戦功により、二五日佐鎮長官から表彰され、三〇日防衛線司令官から感状を授与され、かつ二階級特進した。更にその武勲は天皇陛下への戦況奏上書に記載されたとの記録が残っている。 同じくニー日、東支那海をはさんだ対岸の上海地区に飛来したB29を逝撃のため二五六空の零戦延三三機、雷電局地戦闘機延五機が飛び立った。 当時二五六空の分隊長厚地篤彦中尉は、比島に進出していって戦死した石井恒中尉、そして岡和男とともに上海地区の防空と海上交通路保護に当っていた。 坂本中尉が大村地区で遊撃していた少し前の午前八時二〇分、厚地分隊長は、零戦隊指揮官として基地を発進した。崇明島上空でB29一三機及び楊子江口上空で同一機を発見し、直ちに攻撃に入って三号爆弾を使用した。来敵を撃じょうし、九時一〇分に編隊は帰着したが、指揮官機は帰還しなかった。全力を挙げての捜索にもかかわらず人月も機体も発見できなく、敵を追跡して反復攻撃を敢行中、東支那海洋上に自爆したものと認められた。 戦後出版された「特集・実話特報」の第八集で「世界を驚嘆させた日本海軍航空隊−本土上空B29邀撃戦・零戦見参す(清川新一氏記)」に詳述されている。 |