11月13日、マニラ地区に敵の戦爆延べ350機が来襲して、内地から輸送任務で進出したばかりの巡洋艦木曽、第三次多号作戟から帰ったばかりの駆逐艦初春(森谷尚幸)、沖波がマニラ港内で被弾着底した。キャビテ軍港では損傷中の「秋霜(原由実)」と「曙」に攻撃が向けられた。この日、クラーク地区にも敵約一三〇機が飛来した。 第一次はグラマン戟聞機三〇機、艦爆六機であった。この来襲機に対して戦四〇二(紫電戦闘機隊)の竹林正治中尉は、僚機九機を率いてマルコツト飛行場から飛び立ち遊撃した。敵三機撃墜の協同戟果を挙げたが、竹林中尉など五機が未帰還となった。その最期は、《未帰還〉とのみ記録されていて被弾自爆したであろうその状況は確認することができない。 14日にも前日に引続いてマニラ、クラーク両地区に敵の大編隊が来襲した。この艦載機は、マニラの〇七五度二一〇浬附近の三か群合計七隻の空母から飛来したものであった。この目標に対して中島浩二中尉の率いる神風特攻山本隊の戦爆(戦闘機に爆装)二機が、直掩戦聞機一機の護衛で午後四時アンヘンス飛行場を発進し、攻撃に向った。 進撃の途上で天候が悪化し、その上日没にかかったので各機を分離行動させたが、その後隊長機はそのまま消息を絶ってしまった。 中島中尉は、四十期学生終了時、高橋進、嶋幸三、田中公夫の期友とともに戦四〇七に着任し、その後田中と一緒に三十九期学生出身の大渕浩、松井康両中尉のいた戟三〇八に転任し、比島に進出してきた。その間、田中が戦三〇四に転出し、松井康中尉が一〇月二四日の作戦で戦死したので、この時は大渕中尉と二人だけになっていたと想像する。 戦勢我に利なく、局地ごとの小兵カによる反撃作戦で孤軍奮戦といった様相を帯びてきたこのごろでは、中島中尉に代表されるように、誰にも見届けられることなく消えていくものが多くなっていた。彼らの悲痛なその最期に思いを至すとき暗涙禁じ得ざるものがある。 |