(戦況) 一八年12月から四隻の商船改造の航空母艦が就役して海上護衛総隊に編入され、九三妄の対潜機を搭載して門司・シンガポー〜間を中心とする南西航路の護衛に当った。これらの空母で終戦を無傷で迎えたものはなかった。 海鷹 別府湾で座礁放棄(二〇・四月 大破) 神鷹 沈没(一九・一一・一七) 大鷹 沈没(一九・八・二八) 雲鷹 沈没(一九・九・一七) 護衛戦の研究家である大井篤氏は、その著書で〈護衛空母はいずれもほとんど何の役にも立たず悲惨な最期を遂げた。艦長も飛行機搭乗月も護衛には全くの未経験者であったことが一因であろうか。みんな夜間にやられたことから考えて、護衛部隊が対潜レーダーを持たなかったことが、最も大きな原因だったろうと思われる》と述べている。搭載機が前路哨戒を行った昼間には被害がなかったことから、制圧効果を相当挙げていたとも言えて、《何の役にも立たなかった》とは言えないかも知れない。 独商船シャルンホルストを改造した神鷹は、一九年七月就役して九月以降九三一空の艦攻一二機を搭載し門司・シンガポール(又はマニラ)間の護衛に当っていた。 鈴木政則中尉は、就役前の一九年四月ごろこの艦に着任した。九三一空の湯島務中尉などの搭乗員が配乗して、一一月一四日門司出港のヒ八一船団(優秀船八隻に護衛の海防艦五隻からなる)を護衛し黄海南部を西航中に、敵潜スペードフィッシュ他二隻の狼群に発見された。船団から上がる黒煙を見つけられたのだという。 敵潜は、一七日午後早く船団を見つけていたのであるが、黄海の水深が浅いのでいったん見送り夜間浮上してレーダーで探し直して攻撃することにしたのであるという。この時期米軍は、支那大陸に潜水艦部隊と連係して作戟する海軍航空部隊を配備しており、その部隊の一機もまたこの神鷹船団を発見していた。 日没とともに浮上した敵潜が飛行機の報告を受けて攻撃に転じた。日本側護衛艦は、この頃ようやくレーダーを装備し始めていたので暗夜に敵潜を探し求めたがまだレーダーそのものも性能低く取扱操法も未熟で敵目標を探知するに至らなかった。午後一一時〇三分、スペードフィッシュ号の発射した六本の魚雷のうち四本が神席に命中して同艦は右舷に傾いた。 甲板に積んでいた飛行機が海中に滑り落ち艦長が総員退去を命じた直後、巨艦は艦尾から静かに沈んでいった。 炎上する艦首は暗夜を赤々と染めていつまでも水面に残っていたという。水深わずかに三五米ばかりの浅い海であったから、艦尾が海底に着いてそれ以上沈むのに時間がかかったのであろう。 沈没位置は、北緯三三度二分、東経一二三度三三分であった。深夜のことで救助も思うに任せず、生存者は六一名、南方の任地に向う便乗者を含め千首余名という多くの犠牲者を出し、高射長兼分隊長の鈴木政則中尉も九三一空搭乗貞の湯島軒中尉も共に暗やみにその消息を絶った。 あるぜんちな丸改造の海鷹(柴正文)も一九年三月就役して護衛戦に参加した。 先に神鷹で戦死した湯島中尉と同じ九三一空の九七鑑攻搭乗貞横田雅行中尉もこの艦に配来して対潜直衛、哨戒に従事していた。横田中尉は、一九年一一月二九日台湾の北方、北緯二六度二五分、東経一二一度四五分空 母 海 北342の海面で前路哨戒の任務に就くため母艦を発進したが、そのまま消息を絶ってしまったのである。この海域にはまだ敵機動部隊の行動がなかったので緊迫した事態の発生か、敵潜を発見連絡する暇なく突入したのかだれも知らない。 この海鷹は、二〇年に別府湾で被爆大破、欄坐し、航空機の爆撃訓練の標的となりそのまま終戦を迎えた。柴正文は、横田中尉配乗の少し前に那智に転出している。 |