(戦況) 南支部海の海上交通保護 捷号作戦も終りを告げた後の作戟の舌言…はレイテ島への増援輸送と海上の敵の撃破、そして内地への石油、ゴムなど戦略重要物資を輸送する南支那海の海上交通路の確保に移っていった。 九〇一空の本多行中尉(当時)が、フィリピン沖海戦の際、一九存二〇月二三日夜半道口俊夫中尉(当時)とともに敵機動部隊の夜間索敵に出動し、道口中尉は戦死したが、彼は発動機故障とレーダー故障によく耐、享翌朝東港に帰ってきたことは既に述べたところである。 二〇一二月以降、特に南方からの難関バンー海域の対潜作戦が重視され、所在の対潜航空隊の総力を挙げての努力がなされていた。東港に引揚げていた本多行大尉は、同じ隊の期友小川源嘉、南部真三などとともに本来の任務である対潜直衛及び哨戒に当っていた。 本多大尉は、一月二日午後一一時、九七式飛行艇で基地を発進し、翌三日の朝七時五分には高雄の西方一五浬において四〇船団の直衛に当っていた。このとき敵機の来襲を発見した本多機はこれと交戦にはいったが、運動力のにぶい飛行艇は空中戦で戦闘機には勝てず、被弾し自爆したの。 台湾の東港には九〇一空の本部があり、各地に派遣隊をおいていた。海南島の三亜派遣隊には模恒方、山口守人両大尉と手島文男が零戦で局地の対潜直衛と防空に任じていた。来港の本隊には、飛行艇機長として戦死した本多行大尉の他に南部真三、陸上攻撃機「九六中攻」の機長に小朴源嘉が所属していた。 それまでにも三亜等には支那奥地から散大型機が飛来し爆撃していたが、このころからP38や51の小型機もようやく沿岸通航の船団に強力な妨害を加えるようになり、またわが航空基地にも来襲し始めた。二月一五日、三亜基地に敵機来襲が報ぜられ、邀撃のために後四時五〇分一一機の零戦が飛び上った。五分後に敵Pお八機とP51一一機が南西海面より低空で飛行場に侵入、銃爆撃を加えてきた。 手島大尉は第二小隊長、槙大尉は第三小隊長として遊撃し来襲機を捕捉し交戟に入ったが五時〇六分に槙横大尉が被弾自爆した。この日の戦果はP51機二機を撃墜したが、我が方も模大尉機を含み三機の損失を出した。 敵が超低空で侵入したためレーダーによる捕捉が遅れて地上で五機亡失、零戦二その他二機の計四機が炎上した。このころようやく設置されたレーダー(当時は電波探知機、略して電探と呼んでいた)が稼動し始めていた。この時期のレーダーは、高角の低い部分が死角となっていて、敵はその虚をついて超低空で侵入してきたのである。 手島又男はその後遊撃中に被弾して落下傘降下したと同隊の記録に残っており、また山口守人大尉も三月六日戦死するまで連続出動し奮戦していた。
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