(戦況) ルソン島攻略任務を帯びたオーデンドルフ海軍中将の指揮する第七七任務部隊(↑F七七)の艦艇百数十隻はレイテ湾から逐次出撃し、正月を海上で迎え、ルソン島西岸のリンガエンに向っていた。攻略部隊の先頭が我がスリガオ派遣隊に発見されたのが一月二日午後二時で、それから五日黎明までに合計二百九隻が同海峡を通った。 五日午前にその一部であろう約三〇隻の船団と空母一〇隻よりなる機動部隊がマニラ湾沖合を北上するのを発見した我が軍は、神風特攻を含む航空攻撃を敢行したが、圧倒的な米軍の前にはその攻撃も効なく、九日に至ってリンガエンに敵の上陸を許した。ここにルソン島の攻防戦が開始されて、比島戟線は最終段階に入ったのである。 二〇一空は、神風特攻の主力隊であり、この航空隊に所属した多くの期友も既に突入し、その最後の一人となった金谷大尉が第一八金剛隊長として戦爆一六機、直掩四機を率い、正月の五日午後四時ごろマバラカットを発進した。途中戦爆と直掩各一機が引返したが、主隊は進撃してルパング島の北西海域で船団を発見し、指揮官先頭で全機が突入した。 帰還機が一機だけであったので、戦果の確認が一部に限られ、三隻撃沈、一隻撃破と報告されていたが、戦後判明した米側の資料には−〈コレヒドール島沖一〇〇浬附近で午後の四時五〇分から五時四五分の間に、約一七機の神風特攻の攻撃を受け、重巡ルイスビル号他一隻、特設空母マニラ・ベイ号、ザボアアイルランド号、駆逐艦三隻その他二隻合計九隻が損傷〉と記録されており、時刻から判断してこれが金谷隊の戦果と判定きれた。撃沈こそできなかったが、全機勇猛な突入をしたことを証明するものである。 翌五日に攻二五二の米持文夫大尉と三重堀文吉大尉もミンドロ島の敵船団攻撃に出動したが、両名とも行方不明となってしまった。この頃になると戦局も終蔦に近く混乱を極めており、戦闘記録自体が完全に行われたかどうかが疑問であり、部隊全部が消滅してしまったものもあり、終戟前後の混乱で報告書が亡失してしまったものもある等、資料入手はきわめて困難である。ただ、特攻関係の記録は、一航艦の参謀が持ち出して戦後保有しており、比較的詳細にその状況が判明している。 米持・三重堀各大尉についてのそれまでの奮戦状況及びその最後についても、関係資料を発見することができなかった。 |