木下芳夫大尉 木下芳夫大尉は、戦三〇八の分隊長として一二月一七日附で発令されており、台湾で着任したと考えられる。この零戦飛行隊が比島にあった時には、松井康中尉(当時の階級、一〇月二四日戦死)、 中島浩二中尉(同二月一四日特攻戦死)そして大渕浩大尉(三月二五日戦死)が配属されていた。木下大尉はこの後に補充されたのであろうが、谷田部空から比島に進出して同地で作戦した後台湾に引揚げたのか、或いは台湾に引揚げてきた同飛行隊に台湾で着任したのか、池田春男大尉の場合と同様明らかでない。 台湾及び沖縄に一月三日と四日米艦載機が飛来し、台湾にあった木下大尉が三日の遊撃戦で戦死した。敵の空襲目的はミンドロ島攻略の支援であったろうか。 池田春男大尉 池田春男大尉は、厚木基地にあった三〇二空附から一二月五日に戦四〇一分隊長に発令され、木下大尉と同じょうな状況下で比島に急行していったと思われる。 戦四〇一は、戦四〇二とともに三四一空を編成しており、戦四〇一に若林重美中尉(当時の階級・一〇月中旬台湾沖航空戦で戦死)、戦四〇二に中島誠也大尉(一二月一五日クラーク基地上空にて戦死)が配属されていたが、彼等の後任として補充されたのである。 池田大尉がマルコット基地まで進出して着任したのか、それとも台湾で着任したのか木下大尉の場合と同様確認する資料はない。しかし、一月二五日には高雄にあったことは確実であり、同日午前九時五分同飛行場を出発し鹿屋に向った。その目的が何であったかは明らかでない。 鹿屋に向って飛行を始めていくぼくもなくして、通信が絶え消息不明となったと記録に残っている。この日にも台湾に敵機の来襲があっ七との記録があるので、この敵と交戦に入ったのであろう。一二時一五分ごろまでに自爆戦死したものと認められているその後の二月一日附で横鎮附に発令されているが、これが何を意味するのか調査の手掛りがない。 |