南支那海の制海、制空権は、ハルゼー艦隊の侵入以来完全に敵手に落ち、同方面の船舶運航は極めて困難な状況に立ち至った。三月に入ると米軍の沖縄進攻、本土への来襲激化などにより、船舶の運航海面は極度に縮少されて航空護衛の範囲も次第に局限されており、三亜にも敵機の来襲が連続し、山口守人大尉も手島文男もこれを迎えて奮戟していた。 山口大尉は、三月六日来襲した敵機の遊撃戦闘機隊指揮官として一二時四〇分発進し、敵を捕捉して交戦したが、二〇分後の午後一時被弾自爆した。その詳細については、この時期の 「九〇一空・三亜派遣隊の戦闘詳細」が欠番となっていて明らかにできない。 |