(戦況) 大和以下の水上特攻部隊の進撃に応じて北上するであろう敵機動部隊を撃滅するために、七日以降南九州基地及び台湾基地からの航空攻撃が行なわれた。 この頃になると第一線機が枯渇し、練習航空隊から実用機が抽出された。出水基地においても松島航空隊や豊橋航空隊から派遣された飛行隊をもって出水部隊を編成し、松島空の渡辺義昌大尉及び本多昭夫、豊橋空の藤川誠大尉などの期友が集まって来た。 七日この出水部隊から、沖縄周辺の敵艦船を夜間雷撃するため藤川誠大尉機と僚機一機が午前二時ごろ発進していった。松島空の渡辺義昌大尉も出動予定であったが、プロペラの故障でこの日は発進できなかった。これらの期友は、それまで教官配置にあったので、魚雷など重装備で発進した経験がなかったと生存期友は回想する。出水部隊の 「ふ戦闘詳報」によるその最期は次のとおりである。 出撃していった二機はその後連絡を絶っていたが、敵哨戒機と交戦被弾したらしい藤川機が基地に帰投し着陸しようとした。午前七時二〇分、藤川機は、出水町太鼓橋に墜落し機体が大破炎上、機長藤川誠大尉が戦死、搭乗員五名が重傷を負った》 昭南(シンガポール)方面にあって練習員の養成に当っていた第一二、第一三航空隊にも出番が回ってきた。一三空は特七〇一飛行隊を編成して、台湾に、そして内地に進出した。飛行学生卒業と同時にこの航空隊に着任した寺本秀也、坂本浄、川西正一、小田野忠二郎の四大尉がこの時台湾基地に進出した。一二空もまた実用機で特攻隊を編成、村上勝己大尉が参加し台湾に進出していた。 新竹基地にあった寺本秀也大尉は、九日午後三時三五分に九六陸攻で僚機一機を率いて、沖縄方面に敵をもとめて発進したが、二機とも行方不明となって帰還しなかった。 四月一一日、この日は春雨があがって、三日間満を持していた航空部隊が攻撃を行なった。早朝から索敵機が発進して、九時半に喜界島の南六〇浬で空母三隻を含む敵群を発見した。 この敵に特攻攻撃をかけるため、戦爆五〇機、彗星九機からなる集団が発進し、攻三の本田実大尉は第二五二部隊を率い第一国分基地を出発した。 一三二五 潜没潜水艦見ユ 一四三七 敵艦船見ユ 一四四〇 沖縄北端ヨリ方位九〇度八〇浬 一四四五 敵空母一隻見ユ 一四五六 我空母一隻ニ体当リス の報告を残して、本田大尉は五八分突入を報ずる長符を送り連絡を絶った。《一隊三機トモ空母突入セルコト確実ナリ》の記録がその最期を物語っている。 本田大尉の出撃は、結婚早々のことであり、海軍大臣の婚姻許可を得た直後のことであったという。若命宗雄、永友知義や佐々木久弥などとともに新妻を残しての出陣であったのである。 |