サイパンの失陥に始まり二〇年一月未までの間、硫黄島に加えられた敵攻撃は、機動部隊による空襲一二回延べ千二百機、サイパンを基地とする航空機によるもの六九回延べ千五百機、そして水上艦艇延べ六四隻による八回の艦砲射撃も加わって激烈なものであった。特に一九年一二月以降はほとんど連日B24など数十機の空襲が続いていた。 一月二九日来襲したB29を遊撃するため、零戦を駆って基地を舞い上った後藤機が二機の敵機と交戦中、基地から見えるところで被弾し、錐もみ状態で雲中に突入し自爆したという。 飛行学生を修了して、内藤良雄(一○月一二日邀撃戦で戦死)、青木進(二〇一空に転出、比島で特攻戦死)などと台湾の高雄空に着任し、同地での防空に任じていたが、その後三航艦附、戦三一一飛附を経て一月五日この航空隊分隊長になったばかりであった。 このような戦況下、この島の防空に任ずることになって進出していた第二五二航空隊の戟関機隊に後藤甲子夫大尉がいた。後藤大尉は、この地で戦死した期友で八幡部隊の斉藤史郎、戦闘第八五一飛行隊の数野正幸らのあだ討ちを心中ひそかに決意していたことであろう。 |