〈米軍が硫黄島に来攻するらしい》ということが、二月上旬の敵信傍受からほぼ予想されるに至っていた二月一四日に、硫黄島から哨戒に出た一式陸上攻撃機がサイパンの西方八〇浬を北上する約一七〇隻の大部隊を発見した。翌日硫黄島の南方二血○浬に戦艦以下の部隊がいることも報告されて、硫黄島来攻がいよいよ近いと判断されるに至った。 この敵機動部隊は、二日ウルシー泊地を出撃したミツナャー中将の率いる第五八任務部隊であって、友軍の硫黄島攻略を支援するため、まず日本本土をたたいて、硫黄島攻略時来援に出動するであろう日本軍の出鼻をくじく作戦目的をもって、一六日に四波約千機、一七日には二波約五百機で関東地区の飛行機工場、交通機関、船舶を攻撃した。 迎え撃った所在航空部隊の挙げた戦果が撃墜四九機と報告されているが、わが方の被害もそれを上回るもので陸海軍合計百機、地上炎上百二十機という状況であった。また、攻撃目標となった飛行機工場にも若干の被害があった。 この邀撃作戦には多数の期友が参加したが、一六日に後述の五名の期友が戦死したほか、谷田部空の櫓垣保雄と伊藤康夫が軽傷を受け、佐藤良一も重傷を負っている。 @ 筑波空の教官小林幸三大尉と山下格大尉 筑波空の教官小林幸三大尉は零戦隊第四中隊長として一六日午前八時過ぎ同基地を発進し、敵をもとめ交戦に入ったが被弾自爆した。 この日この航空隊は、自爆一二機と多くの犠牲を出しており、同じ教官の山下格大尉も八時三〇分ごろ水戸市北方上空で敵戦闘機八機と交戦し、その一機を撃墜したが自らも被弾自爆した。 @ 戦三〇四の田中恭平大尉 この日館山基地を発進して敵グラマン戦闘機と交戦に入ったが、行方不明となって帰還しなかった。 @ 一三一空の荒瀬清大尉 香取基地に来襲したグラマン三八機を遊撃するため零戦を駆って同基地を七時二〇分に発進した。そして激烈な空戦の後、よく一機を撃墜したが自らも被弾のため発火、七時五三分に香取郡府馬町上空で自爆した。 @ 彗星艦攻一〇五の田中孝大尉 爆で来襲の空母群をもとめて香取基地を発進し、本州東方に作戦した攻一〇五の田中孝大尉は午後一時ごろ敵大型艦を攻撃した模様であったが、行方不明となり帰還しなかった。 この日の来襲は特に激しく各地で遊撃に当った期友のうち五名が戦死するという今までにないものであった。このように内地の大空も敵の制圧下に入り、教官配置にあった期友たちも次々に第一線に立ち敢闘することになった。 |