(戦況・菊水作戦) 第一機動基地航空部隊の航空兵力をもって釆攻の米軍に、大挙して特攻作戦を加えるというのが(菊水作戦〉であった。それは、一号作戦に始まり、六月二二日の一〇号作戦まで続けられた。 一号作戦 四月六日に実施され、陸軍航空兵力と台湾の一航艦 兵力を併せ、水上部隊の残存全力を挙げ た「大和水上特攻隊」に呼応して敢行された。これによって米軍は今までにない大きな損害を 受けたという 二号作戦 四月一二日に実施された 三号作戦 四月山六日に実施された 四月以降は、相次ぐ損耗のために大規模な昼間攻撃を実施することが困難となり、散発的なそしてゲリラ的なものと化していった。 航空部隊に相応じて、潜水艦も沖縄周辺及びその東方に、そしてマリアナ東方の洋上に回天特攻を展開した。 この作戦には生き残りの期友も参戦のため、全国各地から九州に集まっていた。その状況を寺村純郎は期会誌に次のとおり回想している。なお、梅本五十文、大津留健も派遣された. 笠原についたのは四月一二日であった。この基地には全国から零戦が集まっていた。笠原にいた伊藤康夫、横空から速水経康、大村から植松真衛、空襲で焼け鉄骨だけ残った格納庫の群、地下壕の士官室、谷間の士官食堂、苦しい戦いの連続であった。 攻撃と敵の空襲のない時には指揮所でクラスの四名がすぐ集ってドミノに興じた。夕食のビールをかけて勝負に熱中したものである。小林(コレス)が戦死して植松が負傷入院してドミノのメンバーも欠けてしまった。私達が笠原に到着する前に神雷隊の最初の攻撃が敢行されていた。 大和水上特攻部隊が豊後水道を出撃したのは四月六日の早朝であった。この時の索敵で沖純の九一度八五埋に四か群一二隻の空母を発見し、黎明の間に瑞軍陸攻、天山及び夜戦隊がこれを攻撃したが戦果は大きくなかった。 この日の特攻作戦に先立って、戦三一二と植松真衛の参加する制空隊が四波に分れて発進し、零戦一〇六機が沖純上空を制圧し、紫電一〇機が奄美大島附近を制圧して攻撃隊の進撃を掩護している。 この日の特攻参加機は、合計二〇四機であり、宮武信夫、成田金彦、児玉光雄、桑原知各大尉が参加した。参加機の半数が突入に成功したという。この日の未帰還機もまた多く合計一五六機であり、制圧隊の俣野大尉が含まれており、植松真衛(三五二空)、神園望(偵)が参戦中負傷している。 米側戦史に記録されているこの日の米側被害状況は次のとおりであった。 沈没 駆逐艦三隻、上陸用舟艇一隻。
宮武信夫大尉は、元山空にあったが、戦局緊迫のこの時機、特攻隊に志願して六日は第一七生隊月として僚機の特攻機と共に突入した。目標は沖縄北端の九一度八五浬、前出の敵機動部隊であり、愛機艦爆に搭乗し鹿屋基地を発進して体当り攻撃を敢行したのである。
成田金彦大尉は、第一八幡護皇隊艦攻隊(隊長山下博大尉・六十八期)に属し沖鈍周辺の艦船に体当り攻撃を敢行して散華した。 成田大尉が発した電報がその最期の突入状況を明らかにしている。 一五二六 志気極メテ旺盛 一六三七 奇襲二成功 一六三九 突入準備隊形作レ 一六四三 攻撃目標戦艦−長符(我れ突入の意味である) その目標は戦艦であったことから、前出の米資料命戦艦一隻損害》とあるのはこの隊の戦果であったろうか。 彼は四十一期飛行学生で、その期友は四名であり、清木英雄大尉が比島で索敵中にカモテス海に消えていった後を追っている。
ニー〇部隊彗星隊の児玉光雄大尉の突入目標は宮武大尉と同じ機動部隊であり、第一攻撃隊の第三小隊長として、九九艦爆の後席に偵察員篠原秋男中尉を乗せ、ほか二機を率いて、生家の庭先にあるう第一国分基地を発進、機上から両親と生家に告げて出て行ったと、実兄秀雄氏(六十八期生・月光夜戦の搭乗員)が言う。この隊は三機とも突入未帰還となったので、突入状況等すべてつまびらかでない。紫電で直掩に当ることになっていた僚機が途中で、引返ス との記録が残っており、実兄によると、みんなが引返したので、弟が指揮して突入したと聞いている、との事である。
百里空の桑原知大尉は、第一正統隊長として九九艦爆に搭乗、後席千葉正史飛曹長とともに午後三時三分過ぎ、第二国分基地を発進、沖縄周辺の敵艦船に突入した。残念ながらその最期についても詳しい事はわからない。
戦三一二の俣野博大尉は、これらの期友が参加した特攻作戦を支援する目的で紫電戦闘機を駆って沖縄上空制圧に笠原基地を発進し、午後五時二五分奄美大島の上空で敵戦闘機と交戦に入り被弾自爆した。この日の制圧隊の出撃機は、一〇六機でそのうち未帰一四機を出したが、戦果撃一四機を挙げている。俣野大尉所属の飛行隊の戦闘詳報によると、相続く戦闘に連続出撃していたことが明らかであるが、その彼もこの日は帰ることがなかった。
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