(戦況) 一八年以降相次ぐ米軍の反攻によって、熟練搭乗員のほとんどを消耗し、常に錬成途上の搭乗員をも第一線に駆り出さざるを得ない羽目に追い込まれていた。搭乗員の錬成期間をかせぐためには米軍の進攻時期を遅らせる必要があり、淡い望みをかけて二〇年二月ごろから、航空機による敵の泊地ウルシーに在泊中の敵空母群を奇襲攻撃することが計画され、初めトラック島経由で試みたが成功しなかった。 次に計画されたのが、鹿屋から長駆千三百浬を片道攻撃するというものであり、三月一一日二四機の銀河陸上攻撃機が出撃していった。途中エンジン不調のため引返したり、ヤップに不時着したりした機が出て、突入したのは半数の一一機であった。その上進出が遅れて突入が日没後となったので、目標の確認も困難であったろう、大きな戦果を挙げることはできずこの攻撃に寄せられていた大きな期待は外れてしまった。 攻二六二の大岡高志大尉もこの菊水部隊梓特別攻撃隊出発時宇垣長官から訓示を受ける隊員(公刊戦史叢書から)の第四小隊長として参加、福田幸悦大尉隊(七十期生)と行動を共にし、午後七時以降消息を絶った。字垣纏中将著の 「戦藻録」によると−《第四小隊二関シテハ不時着機ノ外何ラノ電ナシ》と大岡隊の状況を述べている。そしてー〈成果不明ナルモ若干ノ戟果ヲ挙ゲタルモノト思フ。但シ若キ者共ノ如ク書ブニ非ズ。昨今ノ決死隊出発二際シ、何等ノ苦モナク微笑ヲモッテ訣別シ見送り得ル事、厚顔トナレルニ非ズ。既二自ラ危機二出入セル事度々アリ、而シテ余モ亦何時カハ彼等若人ノ跡ヲ追フモノト覚悟シァルニ因ル〉とあり、既にこの時自らの最期についての覚悟をされていたことが明らかである。終戦の日、この長官は自ら押紙に突入し、多くの特攻隊月の後を追ったのである。 米海軍作戦年誌によるとこの日、空母ランドルフ・ヵロリン諸島ウルシー水域ニオイテ特攻機ニヨリ損傷〉と記録されているのがこの梓隊の戦果であったろう。 |