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トラック島への挺身単機輸送

(詫間航空隊) 佐々木久弥

海軍少佐 佐々木久弥
 
山城 榛名 40期飛学生 九五三空 佐伯空 八〇一空 詫間空
 二〇年四月三〇日戦死 ニ一オ七月
 台中州立台中第二中学校 父直衛 母lまさ 妻慶子
第五四分隊り小銃係

 詫間空は、飛行艇の航空隊であり、佐々木久弥大尉のほかに坂崎孝幸が機長で分隊長として配属されていた。

 ウルシー泊地を航空特攻し大岡高志大尉などが参加突入したのは三月一一日であった。これに続いて第三次丹作戦が計画され、特攻参加の銀河の基地要貞一〇名と重要物資を中継基地に予定されたトラックに輸送する任務が詫間空の佐々木久弥大尉に与えられた。
 
 ウルシー泊地が敵の重要根拠地となった一九年九月初めから、この泊地に航空機と「回天」で特攻をかける作戦が計画され、既に一一月二〇日に「回天」で仁科開夫中尉が、そして三月一一日には銀河隊で大岡高志大尉が突入散華しているが、そのほか準備物資のウエーキ輸送に当った重本剛中尉乗艦のイ号364潜が目的地に到着することなく九月一六日撃沈されるなど、作戦には多くの犠牲を出していた。
 
 単機でこの重大任務を与えられた佐々木大尉は二式大艇の機長として詫間から横浜水上基地に進出、所要の人月と物資一トン半を積載した後、四月二九日午後五時半にトラックに向け発進した。
 
 敵の制空権下の海域を避けるため硫黄島、サイパン列島線の東側約三〇〇浬に沿って南下、夜間長駆一九八〇浬を一三時間余りで飛翔した機は、三〇日朝五時無事目的地に到着、三〇分後夏島の水上基地に係留し、挺身輸送任務を見事に完遂した。
 
 当時、このトラック基地は敵の空襲下にさらされており、この日も敵大型機来襲が報ぜられて佐々木大尉等は長途飛行の疲れをいやす暇なく、一〇時三〇分に空中避退をした。その一七分後にB24二四機、B25四機と護衛のP47二〇機が来襲し、空中避退中の佐々木大尉はP47と交戦その二機を撃墜したが、自らも被弾し五分後に炎上し、紺碧の礁内の海にであろうか、礁外であったろうか自爆した。
 
 当時詫間空の隊長日辻少佐は現地からの報告によったのであろう”至難ナル任務完了ノ後、敢然敵機卜交戦、幾多ノ不利ヲ克服シテ克ク敵機二痛撃ヲ加エ、遂二内南洋ノ華卜散ツタ彼ノ旺盛ナ攻撃精神ハ武人ノ亀鑑トイウベク、挺身輸送完遂ハジ後ノ作戦二大キク貢献シタ”と賞賛している。
 
 第三次丹作戦(ウルシー泊地攻撃)が五月四日に銀河一九機で発動され、天候不良と故障機の続出で中止されたのであるが、佐々木大尉の功績は大きなものであった。
 
 彼が長途飛来し、そしてその日この島の上空で最期を遂げたことを、当時在島していた矢野良彦と金旺島の砲台長であった井上忠はたぶん知らなかったであろう。
 
 このトラック基地では先に礁外で沈没した艦で戦死した田中常之(香取)、松永正道と山下肇(那珂)の各少尉や礁内で事故で浮上しなかったイ号169潜の内山英一中尉があり、その状況は既に述べた。戦後外地で戦没された英霊の遺骨の収集が行なわれるようになって、四八年夏にこのトラックの礁内で沈没したイ号169潜の遺骨も収容され、内山英一などは内地に無言の帰還をしたが、佐々木やその他の期友を含み多くの将兵はいまだに波静かな礁内や礁外に眠り続けている。