一九年以来の海軍航空隊の相次ぐ劣勢の中で、開戦初開戦初頭の零戦の優位に匹敵するような制空権を取りもどし、怒涛のような米軍の攻勢を食い止めようとして考えられたものが、紫電隊すなわち三四三空の編成であり、基地は松山、司令が源田実大佐であった。 零戦に比べて性能が向上した紫電戦闘機の出現によってようやく可能となったもので、一九年も押し迫った一二月二五日に新編されて、二〇年初頭から鋭意訓練に励み、編隊戦闘の演練に力を入れ、列機にはどんなことがあっても絶対隊長機から離れることのないよう強調しながら、三月初めには一五機の編隊空戦が支障なく実施できるようになった。 この紫電隊には比島戦線にあった山田良市が呼びもどされ、また松村正二と大津留健、そして嶋幸三、松崎国雄の期友が配属された。 三月一九日、呉地区に来襲し在泊中の艦船に大きな被害を与えた敵艦載機を邀撃するため、三四三空の紫電戦闘機が各所で空中戦を展開した。山田良市の回想によると戦四〇七の嶋幸三大尉と戦七〇一の松崎国男大尉は温泉郡中町西方の海面を北上する敵グラマン戦闘機三二機を遊撃し、午前七時一〇分頃、松山西方七〜八浬の上空で相前後して被弾自爆した。当日、松崎大尉がその一機を撃墜したと報じている。一七日とこの日に合計六〇余機の敵機撃墜の戦果を挙げたこの隊は聯合艦隊長官から感状を受けている。 この戦闘機隊の遊撃をかわして進入した敵機群は大挙して呉軍港に飛来し、海軍工廠、軍需部施設及び在泊艦艇に攻撃を集中した。この攻撃は、敵がわが本土の軍事基地に行なった最初の大規模なものであり、フィリピンからようやく帰って釆た戦艦伊勢、日向、空母竜鳳、軽巡大淀(浜尾誠)などはこの爆撃により実質的にその戦闘力を失い、戦艦榛名、重巡利根(中村守二)、新造空母天城その他多くの艦艇が損傷した。筆者(佐藤清夫)も桐に乗艦修理桟橋で対空戦闘を実施したことを回想する。 その状況は米軍が焼山上空から撮影した写真に明らかで、陸上砲台、在泊艦艇から撃ち上げる白い弾幕、麗女島沖で被弾炎上する利根、竜鳳、大淀(浜尾誠)、伊勢、火災中の軍需部が当時を思い出させる。正面前方は江田島であり左遠方は愛媛県の山々である。この上空で嶋、松崎両大尉が凄惨な空中戦を展開、散華したの。 |