(戦況) 三月一八日以降、日米の沖純攻防を巡る激闘が続けられていったが、戦勢我に利なく、当初強硬に沖縄決戟を呼号していた聯合艦隊司令部も、四月一六日実施された菊水三号作戦を機として、戦略的後退を余儀なくされ、中旬以降に予定されていた第一〇航空艦隊の九州進出を取り止めた。この航空艦隊は、霞ケ浦航空隊、谷田部航空隊、百里原航空隊、松島航空隊、元山航空隊からなっており、多くの期友が各航空隊に所属しており、第一線への進出機会を失っている。 四月一六日は晴れ、連日の晴天の下に菊水三号作戦が計画どおり決行された。この作戦終了後は九州方面の天候悪化のため、四月下旬までの間しばらく積極的作戦が中止されている。 一五日の夜間索敵で発見された喜界島南東の三か群の敵に対して、沖純周辺及び喜界島上空を零戦隊により制圧の上、特攻が出動した。この日の出動機は、九州方面から海軍機の三九三機及び陸軍機の九〇機に、台湾からの二二機が加わり、そのうち特攻二二四機であった。出撃機数も多かったが、損害もまた大で未帰還合計一二七機、うち特攻一〇六機の多きに達している。 戦三〇四の高橋恭二大尉は、特攻の直掩制空隊第二小隊長として、午前七時二五分国分基地を発進し、任務を完了して帰途に就き鹿児島上空にさしかかったところ、右後方上空千米から敵グラマン戦闘機の奇襲を受けた。制空隊は直ちに応戦したが、高橋機が九時五四分過ぎに消息を絶った。 ペナンにあった第一三航空隊には寺本秀也、坂本浄、川西正一、小田野忠二郎の四期友が配属されていたが戦局の進展により台湾に進出して攻撃特第七〇一飛行隊を臨時編成した。四月九日寺本秀也大尉が出撃し戦死した。その後に続いて、坂本浄大尉が一八日新竹基地から出撃した。 攻撃目標は、沖縄周辺の艦船であり、愛機は九六陸攻、薄暮攻撃をねらったが、来月五名と共に行方不明となった。 |