(戦況) 四月下旬以降は作戦機数も減少し、昼間の特攻強襲が困難となって、二七、八日には夜間特攻を主とする菊水四号作戦が行なわれ、これをもって四月の作戦は終った。 この頃になると沖縄には百数十機の陸上機が常駐し、その攻撃圏は九州方面にまで及ぶようになり、わが特攻機は敵の遊撃戦闘機及び逐次整備されてきたレーダーピケット網に阻止されて、航空ゲリラ戦的な攻撃を計画するよりほかなすべき方策がなくなっていた。
七日はプロペラ故障で出撃中止、一二日九六陸攻で沖純周辺雷撃、二〇日発動機故障で発進しなかった。 彼の最期は二六日である。この日は「KFB天信電令第四九号」により、一式陸攻マシ三六七号に搭乗、沖縄周辺夜間照明雷撃の五機の隊長として出撃が計画されていた。ところが部下の四機全部が故障で出撃できなくなり、渡辺機は単機で午前○時五一分基地を発進tた。 発進後連絡がなく、予定どおり攻撃を実施し現地で被ノ弾自爆したと考えられていたところ、翌日になって前日の午前六時出水郡長島海岸から二〇粁附近に墜落海没した機のあることを目撃した地元民から連絡があり、それが渡辺機であることが判明し、その遺体が収容された。
川西大尉は、四月三日台湾に進出し、寺本秀也、坂本浄、小田野忠二郎の各期友とともに連戟してきたのであるが、寺本、坂本両大尉が戦死したことは既に述べた。 九日、一五日、二八日(この日は引返す)と連戦し、この日の第二橘作戦には遂に帰らなかった。米側の資料によると、この夜特攻により駆逐艦一隻、敷設駆逐艦一隻が損傷を受けているが、これは彼らの戦果であったろう。
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