二五日も午前八時少し前、まずカーチスらしい戦闘機が艦隊の東方に姿を見せ、次いで瑞鶴が一六〇度方向、距撃ハ000米に約一三〇機の敵大編隊を発見。同艦から九機、千歳から二機の零戟が飛び立ったが、米編隊は二群に分れて攻撃を開始した。 瑞鶴がまず被弾し、その後魚雷が命中して艦は左に大きく傾き、速力が急に落ち始め、通信ができなくなった。 伊勢は至近弾二発、大淀(浜尾誠)は直撃弾一発と至近弾二発を受けたが、それぞれ損生昆軽微であった。八時五六分に駆逐艦秋月が被弾しこの艦はまもなく沈没した。 瑞鶴が通信能力を失ったので、旗艦通信を大淀に代行 させた。敵機の去ったのを見計らって、小沢長官は旗艦を大淀に移そうとしたが、この時第二波の攻撃が始まつたので移乗を中止した。この頃瑞鳳も被弾したが、応急修理に成功し全力発揮が可能となった。 千歳(青山清、笹尾惣太郎)、千代田(池田喜夫)の雨空母と五十鈴(秋松輝吉)、多摩(中地勘也)、横(大山雅清)、 桐(三谷与司夫、篠原健次)、霜月(立入仁、河崎秀幸)のグループには、八時一六分、艦爆約六〇機、雷撃機数機が来 襲し、中地勘也中尉の乗艦多摩にまず魚雷が命中し、同 艦は落伍した。続いて青山、笹尾両中尉の乗艦千歳に攻撃が集中し七発の直撃弾を受け、舵故障・左舷浸水、米軍の撮影した写真がこれを証明しており、九時三七分この艦は艦影を没した。 艦長岸良幸大佐以下四六八名が戦死。同艦に配乗していた六五三空の兵器整備分隊長の青山中尉は艦と運命を共にしたが、航海士の笹尾中尉は救助された。 波間に漂流する生存者の救助は、第二次の空襲で中断されたが、その後空襲の合間を縫って五十鈴に二〇〇名を収容した後救援に来た霜月に後事を托した。しかし、この霜月も第三次の空襲で救助活動ができなくなった。 |