新鋭空母「大鳳」は、この作戦参加が初陣であり、福本淳司、中谷勝通、荒井正人の三期友が乗組んでいた。 第一次攻撃隊を発艦させた直後の一九日午前八時○分に北緯一二度二四分、東経一三七度二〇分において米潜アルバコーア号の攻撃を受け、魚雷一本が命中した。このくらいの大艦では、一本ぐらいの被雷では別に致命的な被害でもなく、そのまま作戦を続行している。一航戦の僚艦翔鶴が被雷したのはそれから約三時間後であった。 翔鶴も大鳳同様日本海軍の主力空母であり、この艦の分隊長として浅井良一、土師延雄両中尉が乗艦し、第六〇一航空隊の兵器整備分隊長池田健書中尉も飛行隊とともに配乗していた。 一一時二〇分敵潜カヴアラ号の発射した魚雷が四本、前部及び中部に相次いで命中、炎水線下前部の戦闘配置にあった応急班は壮烈な戦死、被害個所が水線下で、余りにも大き過ぎた。火勢も衰えず誘爆が続き復原力も除々に減少する。午後一時艦橋も火の海、推進器も止まってしまった。艦長は遂に意を決して「総員発着甲板後部」を下命した。左舷に大きく傾いた後甲板で離艦準備中、艦が大きく揺れ始め、次の瞬間あっという間に左舷部に急激に傾斜した。 次いで艦は逆立ちの状態となり、ゆっくりと海中に没した。この時の渦流に巻き込まれて大部分の乗組員は艦と運命を共にした〉と同艦乗艦中を幸い救助された初陣の七十三期の候補生が回想している。管理人も二航戦グループから大鳳と糊鶴の二隻の主力空母が炎上していた状況を望見し、全く暗たんたるものであった。 翔鶴の乗艦三期友はいずれも艦と運命をともにした。池田中尉は戦闘配置において勇戟奮闘時雷撃により戦死》と六〇一空司令代理の報告資料に記録されている。 同艦の沈没位置は北緯一二度○分、東経一三七度四六分、時刻は午後二時一〇分である。そして被雷中の大鳳も午後二時三二分突然大爆発を起して翔鶴が沈没した二二分後に、ほぼ東方約二五浬で沈没した。乗艦中の三期友はいずれも救出された。 |