ラバウル進出の特別陸戦隊
(佐鎮一〇一特別陸戦隊) 川内 浩

(輸送の潜水艦はイ藤村卓也配乗の号第42潜水艦) 


海軍大尉 川内 浩
 
長門 日向 横一特陸 佐鎮一〇一特隆
一九年三月二三日戦死(公報四月八日)二一歳
 県立武雄中学校(佐賀)
父金護 母ソネ
第三四分隊の銃剣術係


(藤村卓也については潜水艦の項に記述)



 ラバウル北東方面での配備に就いていたイ号墟潜に対して、二月二八日、配備を撤して、サイパンに進出し、佐鎮第一〇一特別陸戦隊の一か小隊をラバウルに輸送するよう命令された。命令を受信して三月三日サイパンに入港したこの潜水艦に乗艦してきた陸戦隊一か小隊は、小隊長以下四九名であったが、その小隊長は期友の川内浩少尉であった。
 
 互に奇遇に驚いたであろう両期友を乗せたこの潜水艦は、翌日に同地を出港して、トラック(七〜一五日在泊)を経由し、一九日パラオに入港した後二三日ラバウルに向った。しかし同艦は、パラオ出港直後から連絡が絶、え、ラバウルに先行した隊員、トラックに出張していた山辺部隊長たちの祈りも空しく、どこにも入港しなかった。
 
 戟後の米資料を検討して判明した同港の最期は、奥パラオ港を出港したその日(二三日)、北緯六度四〇分、東経一三四度三分、サイパンの南東近海を水上航走中に米潜タニー号に雷撃、撃沈されていた》のである。
 
 艦長は、小川綱嘉中佐で、航海長藤村卓也中尉ほか全点と、便乗中の川内小隊仝月が艦と運命を共にし、当時は四月二七日喪失、全員戦死と認定されている。同艦は前述のとおり二月一五日沈没した中島千弘少尉の乗艦イ号伯潜と相前後して就役し、ラバウル方面に進出していた新造艦であった。

 ラバウル進出を命ぜられイ号矧に便乗した川内小隊の本隊である佐世保鎮守府第一〇一特別陸戦隊は、一八年七月一日以降サイパン島に配備されていた横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(落下傘部隊)から抽出された一か中隊二一九名編成のS(submarご完)特別陸戟隊である。この隊の司令であった山
辺雅男氏著の 「海軍落下傘部隊−海に潜る落下傘兵」によるその編制は次のとおりであった。
 
 司令      山辺雅男大尉(六十六期)
 第一小隊長 篠田 実中尉(七十期)
 第二小隊長 川内 浩少尉(七十一期)
 第三小隊長 西尾 少尉 (舞鎮出身)
 指揮小隊長 矢野良彦少尉(七十一期)

 この陸戦隊には炎ラバウルに進出して、同地からソロモン諸島のモノ島に夜間隠密上陸を決行し、同地にある敵司令部、爆弾燃料集積場、飛行場等を奇襲して焼き払う》任務を与えられている。もち諭潜水艦による上陸であった。第一小隊の二六名がまずイ号5潜で二月一九日無事ラバウルに進出し、第二陣として川内小隊四九名が藤村卓也少尉の乗艦に便乗し、同地を三月四日出港、トラック経由後、パラオに寄港して同地を二三日出撃ラバウルに向った。しかし、この潜水艦は消息を絶ってしまい、川内小隊長以下は雄図空しく海没してしまったのである。
 
 第三陣の矢野良彦指揮小隊と第三小隊の計一三〇名は、四月三日頃便船を得てトラック島に進出したが、それ以後、潜水艦便が得られずラバウルへの進出ができなくなり、この地で待機中に部隊は解散されて、四艦隊の守備隊に編入され終戟を迎えた。
 
 川内小隊を失い、部隊をラバウルとトラックに分断されたこの特別陸戟隊の長期にわたる努力苦労は水泡に帰し、母隊であった横須賀第一特別陸戦隊も次編で詳述するように六月一五日サイパン島で玉砕した。