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 終戦直後のヤップ島
割腹自決  (第四六警備隊) 小山梯二


海軍大尉 小山梯二の戦歴
 
日向 瑞鶴 四六警 二〇年九月二五日 自決 二三オ
 県立松本中学校(長野)
父保雄 母ちか
 第四七分隊の剣道係 図書係

 太平洋の孤島で食糧不足と病疫に堪えつつ苦戦を続けていた。彼らの多くはそれぞれれの配置で終戦を迎えたが、ヤップ島にあった第四六警備隊分隊長小山梯二大尉が九月二五日自決した。
 
 終戦により、ヤップ諸島の各部隊は本島ヤップに集結し、九月一四日来島した米海軍によって武装解除されて一七日軍の戦闘序列を解いた後のことであった。
 
 筆者(
佐藤清夫)は「特別輸送艦」とその名を変えた元駆逐艦桐でその年の一二月一二日呉を出港しグアム島、ヤップ島経由でパラオ島の陸軍部隊の復月輸送に当ったが、一九日ヤップ島に入泊したとき、連絡に釆た若い海軍士官から期友小山梯二君自決の旨を知らされ、ぜひ上陸してその霊を慰めたいと申し出たのであるが米軍はいっさいの上陸を許さなかった。その後、防衛研修所戦史皇の「第四六警備隊戦時日誌」を調査し、七十二期池田誠七氏が当時同じ隊に勤務していたことを知り、同氏から小山君の最期の状況を聞くことができた。

 小山梯二大尉は、第四六警備隊附兼分隊長で、兵科の先任将校であった。そして警備科長、哨戒長、砲術長職務執行を兼ね極めて多忙な毎日であった。そしてその後隣のヤップ島の分遣隊長として出ていった。
 
 終戦となって、各島に分散していた隊月がヤップ本島に集り、九月一四日から武装解除に入ったが、米海軍は武人の名誉を重んじ士官から軍刀を取り上げることはしなかった。
 
 在島の青年士官は、ガンルームと称したニッパ椰子の小屋で起居を共にし、内地帰還を待っていた。小山大尉は、そのある日それは自決の一週間ほど前と記憶するが、ガンルーム士官に突然「兄が夢枕に立って、戦争に負けるような奴は死んでしまえと言った」と語った。われわれは、そう言わないでいっしよに帰りましようと強く説得していたが、ひそかに期するところがあった小山大尉は身辺の整理をして、二五日所持していた軍刀で割腹、頸動脈を切り、見事な最期を遂げているのを発見された。

 以上が池田氏の語ってくれた彼の最期である。戦後遺骨が長野の郷里に帰った時、冷たくあしらわれた肉親たちは彼の最期の状況について特別に心配されたと聞くが、それは前述のとおり戦死にも劣らぬりっばな武人の最期であり、御遺族にとってはせめてもの慰めと考える。自決の日が彼二十三才の誕生日の二日後であったことも何らかの関係があったろうか。