(戦況) 松山 愛大尉も佐藤 孝大尉も共に兵器整備関係であり、松山大尉は三十九期飛行学生を終了後、特修科学生に入り転科した。この両大尉は、それぞれの飛行隊の比島進出で来島、敵機動部隊、輸送船団の攻撃に参加する飛行隊の魚雷の調蟹に任じ飛行隊ともども苦労していたが、飛行隊の全滅とともに整備すべき兵器がなくなってしまった。 攻五飛行隊は、その後内地で再建されているが、松山大尉は残留していたので、どこかの飛行隊に編入されたのかも知れない。しかし、その資料はどこにも見当らない。取り残された二人は、一月一六日に編成されたクラーク地区防衛部隊(指揮官・杉本丑衛少将)に配置され、クラークの山中で陸戦に移行したのである。 佐藤大尉の戦闘配置は、第一六戦区(指揮官・佐多大佐)第一聯隊(指揮官・田中次郎少佐)の第一大隊長兼第一中隊長であったが、松山大尉については明らかでない。編制表には攻五の隊名が見当らない。 佐多大佐の率いる第一六戦区隊(哲の一月上、中旬の配備は下図に示すとおりであるが、来攻軍に圧迫され漸次山中に後退、第一七戦区隊と共にマニラが落城した二月下旬ごろから、赤山、葉山方面で斬込みを行ない敵の進出を阻止つつあった。 杉本司令官が、三月七日第一七戦区に移動し、次いで深山に将旗を移動した頃には、司令部残存員わずかに三百名足らずとなっていた。 松山 愛大尉の最期 厚生省援護局の戦没者原簿によると、攻撃第五飛行隊の兵器整備分隊長であった松山愛大尉の最期は−《クラーク地区の戦闘後、山中行動中の四月一〇日、栄養失調にて戦病死》と認定されている。 攻五から再編入された部隊が明らかになれば、戦闘配置表により、その最期について多少とも知り得るのではないかと考えて、攻五の残留隊員についてずいぶん調べたが手掛りを得られなかった。このような訳で、その最期を明らかにすることができず残念であり、別述の吉田邦雄大尉といいこの松山大尉といい、彼らは戦闘と病気と飢餓で苦労して山中に消えていった多くの将兵のうちの一人である。 佐藤大尉の最期 五日後、佐藤大尉が被弾重傷を負い野戦病院に収容され移動中の四月一五日に戦傷死してしまったのであるが、この両期友は戦闘前も観閲中も必ずやどこかで遭い、助け合いかつ励まし合っていたことと思うのである。 三月下旬の時点で佐藤孝大尉の所属第一六戦区隊の総員数が約千六百余名、第一七戦区隊も約五百名を保有してなお相当の期間にわたる陣地の確保に自信を持っていたが、ピナヅボ山の西方面でゲリラ活動を実施して米軍をけん制することになり、三月二〇日から同方面に移動を始めた。 佐藤大尉は、この時まで「黄山」陣地を守っていたのであるが、移動が始まった翌日の二月一日に敵の砲撃を受けて、右腕、右脚を切断するという重傷を受け野戦病院に収容された。 クラーク防衛海軍兵貼病院は、三月中旬敵の急襲を受けて全滅しており、第一六戦区野戦病院もその維持ができなくなって四月上旬パンパン川上流で解散、患者を原隊に復帰させてしまった。佐藤大尉は、重傷の身で、この野戦病院とともに北方の峠附近に移動したが、一五日遂に死亡したと帰還者の報告に記録されている。 両期友の亡くなった後の四月中旬に、将校斤候により深山の西方及び北方に相当の敵兵が進出し、北方のイパ街道及び野方街道の警戒は、棲めて厳重であると報告されている。四月二〇日、杉本司令官はクラーク海軍防衛部隊の編制を解き、各部隊の行動を戦区指揮官の所信にゆだねており、その直後杉本司令官も戦死した。この山中での防衛戦は、このようにして一六戦区隊を除いてことごとくが全滅した。 この大戦で二百六十余万の陸海軍の将兵がそして軍属が戦没し、一般民間人も多数死亡したのであるが、そのぅち極めて多くの者が右に述べたような混戦下の悲惨な最期だった。
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