サイパン島の守備は、陸軍部隊が其の主力であった。この時期、この島にあった海軍部隊としては、南雲中将の中部太平洋艦隊司令部のほかに、この島の海軍施設の守備を担当する第五根拠地隊があり、またたまたま潜水艦作戟を指揮するためこの島に進出していた第六艦隊司令部(司令長官高木武雄中将)が所在し、その指揮下の潜水艦と在島附属部隊を指揮していた。 第五根拠地隊の主力は、第五五警帰隊と横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(落傘部隊)等であり、その他、多くの附属部隊施設があった。この部隊に配属されていた期友は次のとおりである。 第五五警備隊 平田茂夫中尉 横一特別陸戦隊 斎藤実、西山亮次、柳生喜代治、和久利芳夫の各中尉 このほか、潜水艦部隊関係者として附属隊の甲標的艇長深佐安三、後藤恭祐の各中尉があり、ロ号108潜に転任発令された浜本平治中尉がたまたま同島に到着したばかりであった。
横須賀第一特別陸戦隊は、ガラパン地区守備の中枢部隊として奮戦し、指揮官唐島辰男中佐は優秀であり、部隊もまた訓練がよかったと公刊戦史葉書「マリアナ沖海戦」版に記述されている。この部隊は、敵が上陸を始めた当日の翌早朝(一六日)、そのほとんどが戦死し、生き残った隊員も翌日に大損害を受けて後退した。そして終戟を迎えた者はごくわずかであった。 期友の四名は小隊長として斬込作戦に参加、全員が戟死したものと認められており、同じ隊にあった経理学校のコレス森島主計中尉もその後玉砕している。 この落下傘部隊は、一七年一二月横三特陸を編入して再編され、久里浜にあって警備を兼ね訓練に当っていたが、一八年の六月、ナウル島への増強兵力として二か中隊が抽出された後、横二特陸として再編成きれた。この頃、まだ少尉候補生であった川内浩と矢野良彦(両名とも後で佐一〇一特陸に抽出される)、柳生喜代治の三名が着任、七月になって西山亮次と和久利芳夫の両少尉、続いて斎藤実少尉が着任した。 九月五日、同部隊は、中部太平洋方面の機動予備兵力としてサイパン島に進出待機することになり、乾安丸で内地を出発し一六日現地に上陸した。本部をアスリート飛行場の宿舎に設置し、ガラパン岬の香取灯台附近に陣地を構築、訓練と陸上警備に任じている。 一九年一月一日付で、潜水艦に乗艦ゲリラ作戦を主任務とする予定の佐鎮一〇一別陸戦隊として一か中隊が抽出され、そのうちの川内浩少尉の指揮する小隊が藤村卓也乗艦のイ42潜でラバウルに進出中行方不明となり、矢野小隊と他の一か小隊がトラックに、篠原小隊がラバウルに進出する等分断された。人員は准士官以上二三名、下士官兵七五三名と記録されている。 管理人(佐藤清夫)は、陸軍部隊の中部太平洋方面増強の輸送に参加して、三月一九日サイパン島に入泊した際、同島に上陸、散歩中に香取灯台陣地で全く偶然彼らに会い、その奇遇に驚くと共に彼らが落下傘部隊員であることを初めて知った。まさか三か月後にこの島に敵が上陸し、彼らが全員玉砕するとは夢にも思っていなかった。 六月一五日の夜半から一六日早朝にかけて、この部隊はガラパンから南下し、上陸中の敵に斬り込みをかけたのであるが、敵の砲撃で道路が破壊されて進撃が遅れてしまった。 モリソン戟史による当夜の状況を紹介することにする。 海浜からススペ湖沼沢地に撃退された日本軍歩兵は、一か中隊或は二か中隊宛をもって小部隊に分れ逆襲し来り全滅に陥った。午後五時一二分、カリフォルニア(戦艦)は、陸上観測班との連絡にようやく成功して、五吋砲弾三一発を高地から「レッド2ビーチ」の東とその北方に雪込んで来た千名以上の日本軍の真中へ打ち込んだ。 数回探りを入れた上で一六日午前三時○分、日本軍のラッパが鳴り響き、一大突撃を告げ、軍刀を振い、軍旗を翻えし、海兵隊を海中に追い落す意図を以て攻撃を加えてきた。 駆逐艦三隻からの星弾が戦場を照した。日本兵は、倒れた戦友を乗り越え乗り越え進撃し来り、此の翼側の激戦は五時四五分まで続き、日出と同時に最高潮に達した。 海兵隊の戦車五台がこの時最後の攻撃を食い止め、日本軍は駆逐艦ヘルプス、モンセン、巡洋艦ルイスビルからの弾幕の内を退却した。敵の遺棄死体は約七百であった。
|