(戦況) サイパン島に敵が上陸したのは六月一五日であり、同島守備隊が奮戦ののち戦闘能力を失ったのは七月八日ごろであった。その後勢にのった米軍は二一日にはグアム島に、その二日後の二四日テニアン島にそれぞれ来攻してきた。 六月二三日、艦隊援護のもとに南西部にあるテニアン港附近に上陸を試みた米軍は所在のわが守備隊の砲撃で撃退され、一たん後退したのち更に翌二四日午後三回にわたって再上陸を試みたが、そのつどわが軍の奮戦で撃退されている。 わが軍の強力な反撃にあって、慌てた米上陸部隊は計画を変更して、島の北部海岸に突如として奇襲上陸を敢行し、その日の内に橋頭堡をを確保してしまった。これはわが判断に反した上陸であり、これを迎え撃った守備隊は圧倒的な火力の前に後退を続けて、最後の陣地を島の南部台地カロリナス山中に選んでたてこもった。 テニアン島で敵を逝撃した期友は同島の警備を担当していた第五六警備隊分隊長の佐竹隆俊中尉、この島の基地から作戦していたが先の敵機の攻撃で愛機月光夜間戦闘機を失なってしまい、脱出する機会を失った三二一空:兵頭真男中尉があtった。
第五六警備隊は、隊員二〇〇〇余名でテニアン島の五か所に陣地を持ち海岸砲及び対空砲を装備していた。特にウシ岬飛行場の防衛を重視した。 佐竹隆俊中尉は、一九年三月一日付で「夕張」からこの島の警備のため赴任しているが彼の配置が何であったか知る資料は見当らずその最期を知ることはできない。 米軍は、サイパンの占領後にこの島に対し望ハ日間という長い十二分な準備砲撃を行なった後に上陸してきたので、守備隊はその時期までの間に既に相当な被害を蒙っていたのである。米軍がナパーム爆弾を使用し始めたこともその特徴であり、ホーランド・スミス海兵中将が炎太平洋戦争中における最も完全な上陸作戦》と呼んだと記録されて、その戦闘がいかに激烈であったかを想像することができる。 前出のとおり、海軍警備隊の最期は、八月一日以前、場所はカロリナス丘南方と同隊司令の訣別電にある。佐竹中尉たちの最期を伝える個所は見当らない。 そして訣別電を発した時の人員が二千名から三百名に減っているので、佐竹中尉がそれまでに戦死したのか、その時生存していたのかさえ全く不明である 佐竹中尉がこの警備隊のどの配置で、どこの地区に配備されていたか不明であるため、その最期は以上の記述から推理するほかない。東部のガラパン地区にあったのか他の砲台の分派隊長であったのか。大家司l令と共にカロリナス丘南方に移動したのか、又はそれまでに敵の制圧で爆死したのか、いっさい知るすべがない。 この海軍部隊もほとんど陸戦訓練を受けていなかったが、戦意は旺盛であったと米モリソン戦史がその最期を賞讃している。
この島に敵が来攻上陸したのは二四日であるが、サイパン島に上陸軍が上った一三日にこの部隊も特別陸戦隊を編成して、中隊長に兵頭中尉が選ばれ、陸軍の南地区隊第三大隊に配属された。 大高勇治氏の著書によると兵頭中尉の最期は、二九日、敵は眼下の第三飛行場に戦車を伴って現われ、死傷者が続出、三〇日夜カロリナス丘の北方斜面の最後の抵抗線、生存者三六名である。………。兵頭中尉が割腹した。市川大尉も死んだ。死骸がいたるところにころがって夜目にも……と確認している。
|