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潜水艦での邀撃

(ロ号第38潜水艦)  平尾淑人

(ロ号第37潜水艦)  河野幸生 ・  寺西是則

(イ号第11潜水艦)  阿部 守




海軍中尉 平尾淑人の戦歴

 伊勢一二潜水隊附 9期潜学生 ロ38潜
 一九年一月二日戦死 二一オ
 徳島県立池田中学校
父甲午郎 母花子
 第四一分隊の銃剣術係 倶楽部係



海軍中尉 河野幸生の戦歴

長門 三〇潜水隊附 9期潜学生 ロ37潜
一九年一月二三日戦死 (公報二月一七日)  一九才
県立別肝中学校(大分)
父幸吉 母すぎ
第三分隊の柔道係 相撲係
 


海軍中尉 寺西是則の戦歴

長門 香取  ロ37潜 9期潜学生
一九年一月二三日戦死(公報二月一七日)二〇オ
広島県立忠海中学校
父正 母ユキ
第一七分隊の伍長 図書係 倶楽部係 酒保養浩館係



海軍中尉 阿部 守の戦歴

 長門 筑摩  9期潜学生 イ11潜
一九年三月二〇日戦死 二〇オ月
 県立横浜第一中学校
 父泰男 母雪
 第四一分隊の相撲係 柔道係



  (戦況)

 米軍がギルバート諸島に釆攻したこの時、この方面には九隻のわが潜水艦が配備されていたが、敵機動部隊に捕捉され六隻が行方不明となった。ギルバート諸島ではイ号19潜と39潜の二隻、マキン島西方海面でイ号39潜、タラワ島附近でイ号21潜と平尾淑入来艦のロ号38潜が一一月一九日以降消息を絶った。作戟終了で帰投した三隻の潜水艦はいずれも相当な損害を受け修理を必要とする状況であり、その戦訓で従来の用法を反省し作戟方針の転換を迫られるようになった。

 一月中旬以降、ロ号44漕がエスビリサント方面、ロ号39漕がギルバート方面、イ号潤滑がマーシャル東方に向け出動したが、ケゼリンに釆攻した米軍を遊撃したロ号39潜、イ号m潜(
鈴木好和未着任)は帰還しなかった。
  
平尾淑人少尉の乗艦するロ号38潜の最期
 平尾淑人少尉の乗艦するロ号38潜の最期を知る米側の資料はない。
 一一月一九日以来連絡を絶ち、一二月四日の点呼にも応答がなかった。タラワ島附近の哨戒任務を与えられた同艦は、敵をもとめて作戟中撃沈されたのであろうが、確認する手段はない。一九年一月二日をもって艦長野村俊治少佐以下全員が戟死と認定され公報された。
 
 一八年一二月初めから新しい方針のもとで作戦を行なっていたが、前述のとおり南東方面の輸送に従事する潜水艦もあってこの新作戟に従事したのは極めて少数であった。一二月から翌年の一月まではロ号36潜、イ号42潜、ロ号37潜(河野幸生と寺西是則)、イ号11潜(阿部守)の四隻が出動して、その内期友の乗る二隻だけが帰還しなかったのである。

河野幸生、寺西是則両少尉の乗艦するロ号37潜最期
 河野幸生、寺西是則両少尉の乗艦するロ号37潜は、一月三日トラックを出撃し、ニューヘブライズ島崎戒中の二二日夕方であろうか、敵船団を発見触摸を続け攻撃の機会をねらっていた。夜に入りチャンス到来、給油艦キャッシュを攻撃大破させた。艦長は、佐藤作馬少佐である。
 攻撃後直衛艦ビューカナン号のレーダーに探知され照射砲撃されたので急速潜航したが、ソナーに捕捉され、二三日早朝爆雷攻撃で撃沈された。その位置は、南緯一一度四七分、東経一六四度一七分である。

イ号11潜の阿部守少尉
 イ号11潜には阿部守少尉が乗組んでおり、一二月二一日トラック基地を出撃し、太平洋エリス諸島方面で作戦中の三一日昼間にフナフナ島を潜航偵察した。イ号H潜には水偵を搭載していたが、使う機会はなかったのであろうか。偵察を終え南方の哨区に帰ったが敵艦とl交戦したらしくそれ以来消息を絶ち、三月二〇日附で喪失と認められていた。戦後米側の資料を調査し、モリソン戦史には−
  《二月一七日〇六三〇マロエラツプの北東二〇〇浬附近で駆逐艦ニコラス号に撃沈された》 と記述されている。
  他の資料には、  《一九年一月一一日フナフチ飛行偵察を取止めサモア方面に移動消息不明》 とある。
 
 このようにこの艦の最期は、位置についても期日においても大きな違いがある。艦長は伊豆寿市中佐であった。

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