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四月の潜水艦作戦

(イ号第174潜水艦) 岩崎幹男  & (イ号第183潜水艦) 久保良正



海軍大尉岩崎幹男の戦歴
 
日向 金剛 9期潜学生 イ174潜
 一九年四月叫三日戦死 ニーオ
 県立横須賀中学校
父武雄 母キク
 第五分隊の校庭係



海軍大尉久保良正の戦歴
 
扶桑 二二駆隊附9期潜学生 イ155潜 イ18潜
 一九年四月二八日戦死(公報五月二八日) 二三才
 県立長生中学校(千葉)
父誠一 母タミ
 第五〇分隊の倶楽部係 酒保養浩館係

 
 (戦況)
 
 四月上旬、カビュン北方海面に有力な敵部隊が出現し北上の算があるとの情報があって、一〇日にイ号川潜(岩崎幹雄)とロ号  畑潜をトラックの南方に配備し、更に翌一一日トラック在泊中のロ号36潜(池田三郎)と108潜(山本達雄)、42潜(
仁平輝雄)、44酒にも増派を命じている。
 
 その後、この敵部隊が西航した算が大きいと判断されるに至って、山本達雄の乗艦だけを残し、他の艦には帰投を命じた。このように敵情に振り回された潜水艦部隊わ苦悩がこの作戦で浮き彫りにされているのを見ることができる。輸送任務を終了して帰ったイ号38潜(平田光久)が新に配備に就いた。
 
岩崎幹雄中尉の乗艦イ号174潜

 北上を伝、えられた敵機動部隊に備えて、トラック南方に配偶を命ぜられて出撃していった岩崎幹雄中尉の乗艦イ号174潜は四月一一日以降連絡を絶ってしまった。岩崎中尉は、この艦の砲術長であり、呉での修理を終って四月二日に内地から出撃して、トラックに進出した直後の作戦であった。
 
 戦後米側の資料を検討したが、米側が攻撃撃沈した日本潜水艦の中でイ号174潜に該当すると考、えられるものは見当らない。或いはこの艦ではないかと思われるものに、 《四月二九日、トラック南方北緯六度三分、東経二血一度一九分で軽空母モンテレー号の哨戒機と直衛駆逐艦マクドノー号とステフェン・ポッタ一号により撃沈》 された日本潜水艦があり、場所的には該当するのであるが、日時に大きな開きがあって判断しかねている。
 
 イ号174潜の属する潜水隊には、隊附として
前田冬樹がいた。前年の末、前の作戦が終ってトラックから呉に整備に帰った時には、岩崎少尉はこの艦の航海士だった。

 隊附の
前田冬樹もそれまで一緒に乗艦していたのに、隊内の別な艦に乗艦が指定されてトラックに残り、内地に帰れないことを残念がって彼等を見送った思い出があると回想している。今回の出撃は、呉での修理を終えて艦長鈴木勝人少佐の指揮のもと再びこの地に進出した直後のことであった。

 それまでトラック基地にあって潜水艦部隊の総元締であった第六艦隊司令部は、二月一七日の初空襲以来連日の来襲のため、この地での作戦指揮が困難となり呉に後退することになった。当時潜水艦の修理はほとんどが呉海軍工廠で行われ、各地で奮戦した後潜水艦はこの地に帰り整備と休養に任じていた。また潜水学校もここに置かれていて、呉は文字どおり潜水艦作戦の最大策源地であったのである。

久保良正の乗艦イ号第183潜水艦 

  イ号183潜(艦長佐伯貞夫少佐)もこの地における修理を終えて、サイパン経由トラックに進出を命ぜられ、四月二八日豊後水道を出撃した。この艦には久保良正中尉が乗艦していたが、出港後何の連絡もなく、通信が絶えてしまった。同艦は今度の出港の前、三月三一日一旦出撃したが、故障のため具に引き返して修理に当った後の再出撃であったと記録が残っている。
 
 この艦の最期を検討したところ、出撃したその日豊後水道沖で綱を張っていた米潜ボギイ号に捕捉され、足摺岬南方至近の所で魚雷攻撃を受けて撃沈されている。友軍の救助を求めるいとまもないまま海底深く沈んだのであろう。潜水艦の宿命とは言え、土佐の山々がまだ望まれるところだけに、また余りに急な最期だけに残念であったろう。