二月一七日、トラック島が奇襲されて、同地在泊中でぁったロ号36潜と前出の七条少尉乗艦のイ号10潜、作戟終了で帰投中のロ号44潜、そして内地からトラック初進出中の新造艦イ号43潜(中島千弘少尉が砲術長として乗艦中)の各潜水艦に対して、夏鳥の東方60浬圏内に配備が命ぜられた。しかし、時既に遅くて、これらの艦は、敵を捕捉することができなかった。 空襲が終り敵機動部隊が去ったと判断したトラックの六艦隊司令部から一九日各艦に帰投命令が出たが、中島少尉の乗艦イ号43潜は消息を絶ってどこにも入泊しなかった。 ィ号43潜は、この時期藤村卓也少尉乗艦のイ号42潜と共に艤装を終了したばかりの新造艦で、就役訓練を終えて二月九日内海西部を出撃。三日サイパンに寄港し、翌表日同地を出港、一六日トラックに進出する予定であった。 戦後の米資料により判明したところによれば、三日トラック島の北西方において米潜アスプロ号が撃沈した日本の潜水艦が同艦であるとされている。三日に既に撃沈されていたのであるから、遊撃配備命令を受けることはできなかったのである。 管理者と一号生徒の時同じ分隊で、常に微笑を絶やさなかった中島少尉も北緯三度四二分、東経一四九度三分の海域でその最期を遂げた。余りに急な最後で、言ふべき言葉を知らなかった程である、と潜校同期で同室であった青木滋の当時の追悼である。 |