陸上施設への攻撃を知った在泊艦船は、急きょ出港して礁外に出て回避を図り、間に合ったもの、間に合わず礁内で航行回避したもの、錨地で被弾被爆したもの等さまざまであり、どの艦がどの様な行動をとったかは省略するが、前述のとおり多くの艦船が大きな損害を被ったのである。 陸上施設、航空基地の攻撃を終った敵は、攻撃目標を在泊艦船に指向して、多くの荷役商船と若干の艦艇が礁内で被爆して沈没又は損傷した。文月も沈没したが松本、原田は政助され、橋本一郎乗艦の春雨は難を避けた。 この潜水艦錨地にいたイ号42潜と七条一成少尉乗艦のイ号10潜も被害を受けた。イ号10潜の被害は、公刊戟史シリーズの「マリアナ沖海戦」版に《小破》と記録されている。七条少尉、中山栄一中尉〓ハ十九期)他一名戦死、その他負傷三名を出したことまで明らかになったが、その詳細はなかなか得られなかった。その後調査した厚生省資料に《〇五三五敵機の銃撃による》とあり、昭和四九年六月、青木滋が終戦直後九期普潜学生戦没者の最期についてまとめたメモが見つかったというので見せてもらった。 この青木滋メモの七条一成少尉のところに、〈トラックは敵大機動部隊に空襲せられ、その際イ号10潜は潜航が間に合わず、君は前部機銃群指揮官として対空戦闘に奮戦中被弾、戦死せらる。期友中唯一の水上における戦死である》と記されており、このメモにより同少尉の最期が明らかとなった。 この潜水艦は修理の後、米西岸での海上交通路破壊作戦に出撃していったが、途中ミレ島の東方で敵に捕捉され、爆雷攻撃で潜航不能となり、三月二〇日内地に帰投している。そしてその後、河本通明中尉が乗艦し六月サイパン沖で敵を遊撃中に撃沈されてしまうのである。 |