(戦況) 中部太平洋と南東方面で作戦する潜水艦は、この方面が敵の反撃正面であっただけに、十分な整備休養の暇なく次々と作戦に従事しなければならなかった。三月一〇日ごろの潜水艦動静は次のとおりであった。 マーシャル方面 ロ号36潜(池田二面)、ロ号42潜(仁平輝雄) ロ号44潜 ラバウル方面 イ号5潜、イ号41潜、イ号42潜(藤村卓也・前出のとおり三月二三日沈没) 内地からトラックに進出中 イ号2潜(堂園利徳)、ロ号41潜(青木滋)、ロ号43潜、ロ号108潜(山本達雄)、 ロ号115潜 ラバウルからトラックに帰投中 イ号169潜(内山英一) イ号185潜 トラック在泊で整備休養中 イ号16潜(東襄)、イ号32潜(高山垂威)、ロ号 畑潜(萩原達雄) 内地に帰投中 イ号10潜、ロ号 倹(宮本由松) その後、整備休養を終り配備に就く艦、交代を得て帰投する艦があり、配備はもち論次第に変動していた。 メジュロとヤルート間に配備されていたロ号42潜(仁平輝雄)が三月二四日敵の大部隊を発見報告してきたので、附近配備中の全艦が緊張し、捜索に当ったが、新しい情報は得られなかった。配備を撤して帰投するロ号36潜はビンゲラツプ島の見張員を収容している。 印度洋や北東方面でもそれぞれの任務に従事する潜水艦も苦労しており、イ号148潜(吉田弘俊)はアリューシャン方面の敵泊地の偵察任務に、イ号8潜(服部正範・本中貞夫)はインド洋作戦にそれぞれ従事した。 高山重威中尉の乗艦するイ号32潜は、呉から出撃して三月八日にトラックに到着、出撃準備の後一五日トラックを出撃してウオッゼ島への物資輸送任務に当った。この艦は二三日午後六時、ヤルート島北方において敵の大部隊を発見し緊急便で報告を発した。 司令部は、敵発見のこの潜水艦には任務続行を命じ、イ号16潜(東譲)、ロ号36潜(池田)、42潜(仁平)、43潜、44潜、畑潜(山本)の各潜に出撃索敵を命じた。しかし、新配備に就いたこれ等の潜水艦からはいずれも何らの報告も得られなかった。 ウオッゼに到着後、マーシャル東方海域で作戦する予定であったイ号32潜は、二五日の予定日になっても同島に到着せず、消息を絶ってしまった。艦長は井元正之少佐である。 この艦は、戦後の米資料によると、三月二四日、敵を発見報告した翌日であるが、米駆逐艦マンゲラ号と駆漕艇PC−一一三号に捕捉され、爆雷、ヘッヂホッグ攻撃を受け撃沈されていた。その位置は、北緯八度三〇分、東経一七〇度一〇分である。電報発信のため浮上中、同艦が発見した船団の護衛艦にレーダー探知されたのであろうと推定される。 南東方面の戦況も益々切迫して、ラバウルを基地とする潜水檻の行動は、ほとんど不可能となり、三月二〇日に所在の潜水艦全部をトラックに引き揚げることになった。 必要な場合にはその都度派遣する方針に変更されたのである。 当時この方面での潜水艦の主要任務もマーシャル方面と同じ孤島への物資、人員の輸送であり、帰途ラバウル残留の航空搭乗員等をトラックに収容する重要任務も付加されていた。第三十九期飛行学生を卒業した小屋敷弘行は、この頃ラバウルの水偵の第九五八航空隊附に発令されて着任しており、この地で終戦まで苦労している。 新しい作戦方針となってこの地から引き揚げを命ぜらられたのはイ号5潜、169潜(内山英一)、溺潜であり、トラックへの引き揚げ又は内地への帰還であった。イ号41潜と墟潜(藤村卓也)が行方不明となったことは既に述べたとおりであるが、堂園利徳中尉乗艦のイ号2潜も四月七日以降その連絡が絶えてしまった。 堂園中尉は、二月一一日附でイ号157潜からイ号2潜の航海長に発令されて横須賀で着任している。艦長山口一生少佐のもと三月l O日にトラック着、二六日同地を発して四月二日アドミラルチー島のヒクソン湾、四日ラバウルへの輸送に成功した後、トラックへの帰途に就いた。 四月七日南緯二度一七分、東経一四九度一四分、カビュングの西方海面にさしかかった時、米駆逐艦ソーフィー号のソナーに探知されて撃沈されたのであったが、当時はもち諭その詳細は不明であり、五月四日附で喪失と認められていた。 堂園中尉は、候補生時代駆逐艦時津風に乗艦して、パプア・ニューギニアでの初陣の際、乗艦沈没遭難後救助されており、その海域の隣で最期を遂げたのである。 このようにこの方面で作戦に従事する艦が皆無となったので、ギルバート方面に派遣されていたイ号16潜(東譲)と176潜(有園勝)の二隻が四月一七日この方面に配備替えになった。 |