(戦況) 当時、トラックには連日空襲があり、在泊中の潜水艦は、空襲回避の手段として沈座法を採用していた。 それは、錨地についたまま海底に沈座して回避する方法で、しかもそれは通常当直制で行ない当直以外は上陸してよいことにしていた。この方法は、それ以前ラバウルなどでも採用されていたものであった。 三旦六日にラバウルを撤収する命令を受けて、トラックに帰って釆たイ号169潜には航海長として内山英一中尉が乗艦していた。 四月四日の空襲に際して沈座を始めたこの艦は、機関室の給気筒から浸水し、空襲解除を告げる水中信号にも応答なく浮上しなかった。急を知った司令部は、百方救肋手段を講じたが、連日の空襲でもあり、引揚索も切断するなど、有効な生存者救助の方法は全くなかった。 生存者が自ら脱出してくることもなく全員最後までその持場を守り、七日連絡を絶った。当日陸上に赴いていた艦長ほか若干の者を除き全員がその職に殉じたのである。 当時三二遺体のみが収答され、残り七六柱はそのままとなったが、戦後も遅く四六年になって米国のスキンダイバーたちによってその所在が発見され、米雑誌「スキンダイバー」 にその調査記事が紹介されて、この艦はようやく再び日の目をみることになったのである。 艦内は当時の悲劇を物語るように多くの遺骨や遺品が残されており、その大部分は茶色の沈澱物が厚く積った中にあった。また、操舵室には来月が緊急用の呼吸器具として使った白いホースが床の上を交叉しており、乗員たちが必死になって最期まで勇気をもって耐えたであろう状況を目のあたりに見るようであった。一週間にわたる危険な撮影を終え、ダイバーたちは艦内から何一つ持ち出すことなく来月たちの永久の冥福を祈りハッチを閉じた。 同じ海に生きる男としてのダイバーたちの心づかいは、強〈読む人の胸を打つものがある。殉職した内山中尉たち乗員の最期をしのぶ記事である。これを知った生存者及び遺族の切なる要望により、同じ年の夏、政府は遺骨の収容を行ない、彼等は、九月二四日二九年ぶりに無言の帰国をした。 遺骨の収容を終った日本のダイバーたちも、同艦が荒されない様、入口やハッチを密閉したうえ溶接を施したという。この艦は、終焉の地で永遠に浮上せず、波静なトラックの礁内に眠り続け、やがて大地にもどっていくであろう。 |