小竹弘中尉が乗艦するロ号川潜(艦長中村直三少佐)はペナンを基地として印度洋方面で作戦していたが、四月七日から五月二二日の間に佐世保で修理した後、三一日トラック島に進出した。 六月四日、トラックを出撃してニューギニア北方海域のマッカーサー攻略軍の進出通路に当る咽区「ナ」哨戒線に向っていたが、前出のとおり一四日にサイパン哨区に配備が変更された。 命令を受けたはずの同艦は北上して新しい哨区に向っていると思われていたが、そのまま消息を絶ってしまった。当時その行動は全く不明であったが、戦後モリソノン戦史にその最期が明らかにされた。新しい命令の出る前に既に撃沈されていたのであり、以下はその記である。 三日間に六隻の日本潜水艦を仕止めた駆逐艦イングランド号を基幹とする潜水艦狩り部隊(ハンターグループ)第四一駆逐隊の四隻の駆逐艦をもって新しい部隊を編成して、潜水艦狩りに従事した。 六月一〇日、護衛空母の哨戒機がこの部隊の配備点から西方へ八浬の海面で、ロ号川潜の漏油線を認めた。ソロモン群島海域で潜水艦狩りに戦果を挙げたことのある駆逐艦テーラー号がこの漏油線の調査を命ぜられて急行し接近中に、ソナー(探信機)が目標を探知して、翌日の朝に爆雷二個をこの目標に投下した。 時を経て一二日の午後三時四二分に三四〇〇ヤードという異例の遠距離に再び目標を探知したので、ソナーの追尾を容易にするため両舷の機械を停止したところ、この目標が真正面、距離約二四〇〇ヤードのところに浮上した。 左舷に回頭して仝砲火をもって射撃を開始して、三分間に五吋砲弾五発と四〇粍機銃弾多数の命中を与えた。 ロ号111潜が直ちに急速潜航したので、その位置に浅深度爆雷を投下したところ、三時五八分に激しい水中爆発が起り、次いで高さ一〇呪、直経三〇呪の水泡が盛り上って潜水艦の爆発を証明した。
この年の三、四月の間にマーシャル方面で作戦した後、舞鶴に帰って修理に当っていたロ号36潜は六月一〇日サイパンに進出した。同艦には池田三郎中尉が乗艦していた。 サイパンに一日間寄航しただけで、ニューギニアの暗区に急行していた同艦に対し、サイパン周辺の敵遊撃のため引返す指令が出たことは前述のとおりである。これを受信して北上中の同艦から、二二日サイパン附近の気象報告を打電して釆たが、その後何らの報告もなく消息を絶ったのである。戦後判明した同艦の最期は次のとおりである。 ロ号36潜は、三日(気象報告をした日である)水上航走をもってサイパンの東方約七〇浬、北緯一五度ニー分、東経一四七度の地点を新しい配備点に向って急行中であった。ちょうどこの時、同海域で米輸送船団を護衛中であった護衛駆逐艦メルヴィル号のレーダーに探知されて砲撃を受け、急速潜航で回避を図ったであろうが、優秀な敵のソナーは水中を必死で回避する同艦を離さず、同艦はロm潜と同様に爆雷で撃沈されてしまった。 六月四日内地を出撃したばかりのこの艦はこのようにしてその最期を遂げ、艦長川島立男少佐以下全員が艦と運命を共にしたのである。 |