(戦況) 七月二日には既に述べたとおり一三隻の未帰還艦が判明して、潜水艦には被害防止のためレーダーの装備をはじめ諸般の対策を施さない限り、作戦続行が困難と判断されるに至った。しかし、これらのものはいずれも検討中のものであり、事実上潜水艦の出撃は死を意味した。 イ号6潜(熊野武雄)、10潜(河本通明)、 53潜、38潜(平田光久)、ロ号47潜 七月二日、これ等の潜水艦にもトラック又は内地に帰投するよう命ぜられたが、熊野武雄中尉の乗艦するイ号6潜と河本通明中尉のイ号10潜の二隻だけが帰還せず消息を絶ってしまった。
イ号6潜は、横須賀で修理の後、艦長普門正三少佐の指揮で六月一五日同港を出撃し、激戦地サイパンに向ったのである。熊野中尉は同艦の航海長であったが、その最期はつまびらかでない。 当時の喪失公報によると空ハ月三〇日、サイパン東方二〇浬で空母らしいものを撃沈したと報告してきた後、消息不明》となっているが、モリソン戦史にはこの艦の記事はない。他の米資料に奥七月一四日、北緯一五度一八分、東経一四四度二六分 (サイパンの西方約七〇浬)において哨戒中の駆逐艦ウイリアム・G・ミラー号が撃沈》というものがある。これは日附に違いがあるので、どちらをとったらよいか判定しかねる。
以下はモリソン戦史の伝える同艦の最期である。 イ号10潜は、不運にも護衛駆逐艦リッドル号と駆逐艦デービッド・W・テーラー号とに遭遇した。此の両艦は、サイパン沖にあって燃料補給及び飛行機補充の任務に従事中の油槽船六隻と護衛空母プレートン号との警戒に当っていたところ、七月四日午後五時二分リッドル号が一浬以内にソナーで目標を探知した。 プレートン号と油槽船は一隻の駆逐艦を伴い避退して、リッドル号とテーラー号の二隻がその攻撃を担当した。一時間半の捜索とへッヂホッグ或は爆雷攻撃六回との結果、水中爆発音を聞き、かつ日本文学の記してある破片が浮上した。 この艦は、攻撃のため近迫していたが、不幸攻撃前に捕捉されてしまったのである。河本中尉は、帖佐裕が病気で入院したその交代者であったと聞く。また、同艦に河本中尉がまだ乗艦していなかった同年の二月一七日、トラック礁内で空襲を受けその時同艦乗組であった七条一成少尉(当時)が機銃掃射で戦死したことは既に述べた。 |