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サイパン島に進駐・ 一航艦司令部の救出
(イ号第55潜水艦) 養田秀穂



海軍大尉 養田秀穂の戦歴
 
長門一一駆逐隊附三潜隊附 10期潜学生 イ55潜
一九年七月一八日戦死(公報七月一五日) 二二オ七月
 府立第九中学校 
父隆一(陸軍軍人)母敏
 第三八分隊の剣道係



  (戦況)
 
 敵攻略軍の釆攻によって孤立したサイパン島、テニアン島及びグアム島への兵器、物資の輸送と所在の航空搭乗員などの救出のため、四隻の潜水艦が派遣された。
   グアム島揚搭後、同島搭乗員の救出 イ号54潜とイ号55潜二養田秀穂)テニアン島揚搭後、同島搭乗月の救出四隻の潜水艦が派遣された。

  七月九日イ号26潜が厳重な警戒網を冒して成功したが、その後はこれらの島への接近すらできず、ましてや物資を入れた筒を発進した後、所在人員を救出することは両立しないと判断したイ号54漕が一四日深夜、その指示要求をして来た。これを受けた司令部は、人月救出に万難を排し実施するようとの方針を示し、イ号54潜には待機を、そしてイ号55潜(養田秀穂)にテニアンの一航艦司令
部要員の救出を命じた。
 
 この命令を受けたイ号55潜(艦長井筒紋四郎中佐)は一八日までに同島に進入するよう努めたが、一九日になっても成功せず、爽この収容作業の不成功を認めた》司令部から、両艦に対し横須賀帰投が命ぜられた。
 
 テニアンにあった角田一航艦司令長官は連日部下搭乗員と共に短艇に乗って潜水艦との会合点に待機していたが、頼みの潜水艦は浮上しなくて、空し〈陸上に引揚げる日が続いたという。
 
 浮上しないはずである。このイ号55潜は、一四日朝あ五日夜、テニアン島着ノ予定》 の電報を打電した後、テニアン進入を試みたが、《一八日サイパン東方、北緯一四度二六分、東経一五二度一六分で米駆逐艦ワイマン号と護衛駆逐艦レイノルド号の二隻の哨戒艦に捕捉撃沈されていた》のである。この駆逐艦ワイマン号が翌一九日上田良和中尉の乗艦をも撃沈している。
 
 同艦は、この年の四月二〇日竣工したばかりの新造艦で、十分な就役訓練も許されず、七月七日横須賀から出撃した直後のことであった。