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潜水艦の遊撃
(イ号第45潜水艦) 今井千秋  &  (イ号第26潜水艦) 波田野正七


海軍大尉 今井千秋の戦歴

 伊勢 瑞鶴 10期滞学生 イ45清
一九年一〇月二八日戦死(公報二月二一日) 二一オ
 貯立第四中学校 
父(死亡) 母好子
 第四一分隊の小銃係



海軍大尉 波田野正七の戦歴

 山城 榛名 10期潜学生 イ26清
 一九年一一月一七日戦死(公報二一日) 二三オ
 県立村松中学校(新潟)
父(死亡) 母イクノ
 第二六分隊の剣道係

  (戦況)
 
 特攻兵器「回天」によるウルシーなどの敵前進泊地の奇襲攻撃作戦は、一〇月一〇日の敵機動部隊の釆攻によって、その構想が変更され、この作戟に参加予定の潜水艦のうち、イ号36潜(萩原和雄)、37潜、47潜以外の潜水艦は釆攻の敵遊撃に充当されることになり、これらの各潜水艦は出動していった。                         
 出動していった潜水艦は、度重なる配備変更に振り回された形になり、その上敵の対潜戦能力はますます強化されており、所期の戟果を挙げることができなかった。

 内地帰還予定の二月八日過ぎになってもイ号26潜(波田野正七)、イ号45潜(今井千秋)及びイ号54潜が帰投しなかった。
 
 他方、玄作戦が予定にしたがって決行きれることになり、その第一陣として、二月二〇日「回天」の創設者の一人である仁科関夫中尉などがウルシー泊地に突入することになった。

今井千秋中尉の最期

 ィ号15潜(今井千秋・航海長)は、僚艦と共に一〇月一三日呉を出撃して、ミンダナオ東方の哨区に向ったが、その途中、そして作戦中に配備の変更があったので、同艦の行動は困難を極めたことであろう。

 その間の行動は不明であるが、強力な敵の存在する海面でのまともな配偶変革は、シュノーケルのなかった当時の日本潜水艦にとっては死を意味したと思うのである。

 水上航走しながら移動する潜水艦は、米対潜部隊の好個な目標となったわけで、この艦もその犠牲となったる。
 
波田野正七中尉の最期

 イ号26潜には波田野正七中尉が航海長として乗艦しており、僚艦と共に一〇月三日呉を出撃して、ミンダナオ島の東方の配備点に向った。この艦に与えられた最初の配備点は、イ45潜の北北東海面であり、その後配備変更があったことは同じである。当時こ蒜水艦の行動についてもいっきい不明であり、一一月三日の喪失と認められ、艦長西村正一少佐以下全員戦死と公報された。
 
 戦後の米国海軍作戦年誌によると、今井中尉のイ号45潜は二八日北緯一〇度一○分、東経一二七度二八分、ディナガット島の束方約八〇浬において、米護衛駆逐艦ホワイトハースト号により、またイ号26潜は一一月一七日北緯三度四四分、東経一三○度四二分で米護衛空母アンジィオの所属VCl八二の哨戒機及び護衛駆逐艦ローレンス・C・テーラ1によりいずれも撃沈されていたのである。波田野中尉の乗艦は、最初の位置からして、作戦を終、享帰投中であったと考えられ、帰還予定日の一一月八日を一〇日も過ぎた時期であった。

 
久保猛のロ号四三潜はサマール島東方沖に配備されていたが、九死に一生を得て帰還している。