司令部は、二四日になって、新しい敵情から、敵機動部隊の攻撃は困難であると判断してロ号41潜をモロタイ島附近に、他の四隻をパラオ周辺に配備変えをした。配備変更を命ぜられた潜水艦からは、一〇月三日になっても何らの戦果報告もなく、心配した司令部は四日各艦に呉帰投を命じた。 帰投命令を受けた各艦は、逐次哺区を撤して帰途に就いたが、イ号177潜とロ号46潜の二隻に対してウルシー泊地偵察が命ぜられた。この時期、ウルシー泊地は、敵の大根拠地となっており、その後の比島攻略及び沖縄攻略に参加した海軍艦艇はほとんどすべてがこの泊地から出撃していったのである。 ロ号16潜からはウルシー泊地偵察の旨報告があったが、イ号177潜(艦長渡辺正樹大尉)からは何らの連絡もなく、同艦はパラオ附近で撃沈されたと認められ記録に残っている。しかし戦後米資料と照合の結果完月二六日、パラオ島北東方、北緯九度一九分、東経三六度四四分において、米駆逐艦サミエル・S・マイルス号によりロ号46潜ともども撃沈されていた》ことが明らかとなった。 清宮中尉は、浜本中尉(サイパン島で玉砕)の後任として同艦に乗艦し、以後各地で活躍してきた。この第三四潜水隊の挙げた戦果としては、ロ号41潜(細見弘明)がモロタイ附近で空母二隻を撃沈、一隻大破(戦後米資料によると魚雷が命中したのは駆逐撃隻で、曳航されている時転覆沈没)したほか、ペリリユー守備隊の確認した≡日にべリリユー島西方で駆逐艦二隻、五日同島南方で輸送船一隻の沈没〉であった。ペリリユー附近の戦果はこれら未帰還艦の挙げた戦果であろうが確認はできない。 |