(戦況) 盟邦ドイツとの秘密兵器技術交流とそれに伴う人的交流を図るために、昭和17年以降、次の潜水艦を派遣した。 イ号30潜 ドイツからの帰途、シンガポール入港直前味方の防御用機雷により沈没した。 イ号8潜 任務完遂したただ一隻の艦 イ号34潜 往路ペナン沖で英国潜水艦により撃沈された 第四番艦としてイ号29漕が派遣され、ドイツでの要務を無事終了して帰途に就いた。そしてそれと入れ替えにイ号52潜がこの時既に敗戦の色濃いドイツに向っていった。 これら派遣潜水艦の状況については、吉村昭著「深海の使者」に詳述されている。公刊戦史とこの著書による彼らの作戦状況は以下のとおりである。
水門稔中尉はイ号29潜の砲術長であり、艦長はベテランの木梨鷹一中佐であった。一八年一二月一二日の夜、スンダ海峡を突破して煙雲万里の壮途に就いたイ号29潜は、インド洋経由喜望峰を回り大西洋北上の航路(推定)を経て、苦心の末ドイツに着いた。 往路の大任は無事果したが、帰路にまだ大へんな任務が残っていた。一八名の重要人物と機密兵器の資料を満載して、一九年四月一六日、ロリアン軍港(フランス領で当時ドイツ軍占領中)を出港し途中英軍機に悩まされながら、長時間の潜航を余儀なくされ平均二節(時速三・七粁)で航行、七月一四日シンガポールに無事入港した。ちょうどシンガポールにあった同じ潜水艦乗りの三浦昌尹ヂ(戦後病没)が出迎え、ドイツ出港後一千五百浬、八二日間の労をねぎらっている。 その帰路、ドイツに向っていたイ号52潜(松園正信)とおそらく六月一五、六日頃、赤道附近で航過したと考えられるが、勿論会合はしていない。往路・復路とも難関辛苦を重ね、大任完遂を目前にしてこの潜水艦に悲劇が見舞った。 それはシンガポールを出て内地への帰途を急いでいた七月二五日の朝、ルソン島の西方海域は、波浪のうねりが高かったが、艦は増通して水上航走を避け、内地への帰りを急いでいた。午前八時半ごろに敵潜水艦を発見したので、その旨を打電し交戦を避けるため急速潜航した。 その夜は、ルソン島西北端の沖合を通過して、二六日の朝、バリタン海峡の入口に達した。同日も水上航行を続けるうち午後四時一五分に艦橋見張員が魚雷の雷跡を発見して報告したが、高波のため発見が遅れたのであろう、回避できず不運にも前部に命中してしまった。海水が艦内に流入し、第一戦速の高速力で航走中であったため、艦は海中に突入するように沈没していったという。北緯二〇度さ分、東経二二度五五分の海面であり、魔のバリタン海峡である。 日本艦船の常用航路であったこの海峡には、この時点三隻の米潜水艦が配備されていたといわれ、日本潜水艦を攻撃したのは、その中の二隻、ソーフィッシュ号とテルフィッシュ号であった。ソーフィッシュ艦長A・B・バニスター少佐は、魚雷四本を発射して三本が命中するのを認めている。内地帰着を旦別にしたこの艦は、バシー海峡において轟沈と同然な最期を遂げた。艦橋にあった当直将校(航海長であった)と見張員など三名が艦外に放り出され、海中に巻き込まれながらも助かった。彼らはーか所に集まり附近海面を接したが他に生存者の姿は見られなかったという。三名は、必死の勇を奮い近くの島に向って泳いでいったが、友軍に救助されたのは下士官一名だけであった。時刻からすると被雷時は夕食のころであったから、士官室では内地帰着後の明るい話題に沸いていたのではなかったろうか。
(戦況) この時期わが海軍の唯一の期待は、ドイツの電波兵器技術の導入であり、敗戦の色濃いドイツに、危険を十分予想しながらも、イ号52潜を派遣することに決定された。 イ号52潜の艦長は宇野亀雄中佐、砲術長として松園正信中尉が乗り組んでいた。同艦は、一九年三月末呉を出港し、シンガポールで民間の一流技術者たちを収容した上で、四月二三日同地を出港、壮途に就いた。 喜望峰沖合を大迂回し大西洋に入ったころ、キール軍港を出港し日本に向いつつあったドイツからの譲渡Uボートであるロ号五〇一潜が消息を絶ったことを知ったと思われる。また、松園中尉は、先便の期友水門稔中尉の乗艦イ号29潜が四月一六日ロリアンを発して大西洋を南下中であることを知っていたわけである。 イ号52潜は、八月一日仏領ロリアン(当時ドイツ軍の占領下にあった)に到着する予定であったが、この艦がまだアフリカ大陸西方の大西洋上を北上中、ヨーロッパ戦線の様相は一変しており、同艦がノルマンヂー海岸の近くにある同港に到着するまでにドイツ軍がそれを確保できるかどうか危ぶまれるに至った。 、 果して、六月六日に連合軍はノルマンヂ一に上陸し、二〇日には東部戦線のソ連軍も攻勢に転じてきた。我が駐独海軍武官は、この来訪潜水艦の到着港について、ドイツ海軍と打合せしたが、この時には予定どおりとすることとなった。 イ号52潜は、六月二三日アゾレス諸島北方約六〇〇浬で、派遣のドイツ潜水艦と合同し、ドイツ海軍連絡士官を移乗、ロリアに向ったと吉村昭著の「深海の使者」は述べているが、どうもそうではなかったらしい。戦後め米側の検討によると、この艦は、六月二四日アフリカ西岸のケープ・ベルデ諸島西方(北緯一五度一六分、西経三九度五五分)で米対潜空母ボーグの哨戒機により撃沈されていたのである。 このことは当時関係者にはもち論不明であった。八月一日入港と伝えられていたので、首を長くして待っていたが、予定日をはるかに過ぎても艦影は現われず出迎えの駐在武官も何らの情報も得られなかった。 日本武官の要請により護衛艦四隻が予定の会合点に派遣され、直衛機も配備されたがそれらも徒労に終った。 この頃にはロリアン地域一帯は、既に孤立化しており、ますます緊迫の度を加えたため、ドイツ軍は脱出することになり、イ号52潜の入港先をドイツ占領下のノールウェイの港に変更し、イギリス西方海域にドイツ潜水艦を派遣して待ったが、イ号52潜は依然として書信を絶ったままであった。 ここに至って、この艦の沈没は確定的となり、その後も同艦に関する情報は完全に絶え、わが記録には、輿八月一日以降連絡ナク、ビスケー湾方面ニテ沈没カ》となっている。しかし、同艦の最期は、前述のとおりであり、ビスケー湾のはるか手前で、任半ばにして職に殉じていたのである。 米海軍も当時は日本潜水艦を撃沈したとは考えてもおらず、戦後の調査で真相が判明したのである。大西洋方面でも、太平洋方面以上に多〈の潜水艦(主としてドイツの)が連合軍の対潜部隊に撃沈されており、当時米軍は、イ号52潜についてもドイツ潜水艦の一隻と考えていたのであろう。 |