日本海軍が米国西岸の太平洋方面に海上交通破壊戦を展開したのは開戦当初だけで、その後は絶えてなかった。 一九年になって捕虜その他の情報により、米国船舶は、米本土からハワイ、又はオーストラリア向けの航路において船団を組むでもなく、また、夜間灯火管制をするでもなく、ゆうゆうと単独航行を行なっていることが明らかとなった。日本潜水艦が伏在しないというので、安心感をもつこれらの海面へ一隻でもわが潜水艦を出動させることができれば、敵に与える心理的効果は当然大きいわけである。たとえ実質的戦果はそれほど期待できないにせよ、敵は少なくとも灯火管制が必要となり船団を組むとか対潜艦艇を派出するとかの負担を強いることができる。このような基本的考え方から、イ号12潜(石川二助)をこの任務に当てることにされた。イ号12潜は、一九年五月竣エの新鋭大型艦であり、石川中尉は通信長であった。 この艦は、一〇月四日内海西部を出港した後日本海を北上して七日に函館に仮泊し、一二日、約二か月間にわたる潜水艦本来の作戦に従事すべく勇躍出撃していった。 大本営海軍部は、この艦の成果に注目していた。一〇月三一日敵信傍受により、二隻が撃沈されたらしく、と軍令部特務班は報じた。 米西岸とハワイの中間で商船同海面の警戒が厳重になった同艦は、その後南太平洋、タヒチ島方面を経て一二月中部太平洋において大型タンカー、輸送船各一隻以上を撃沈したと認められたが、二〇年に入り一月五日、マーシャル東方、北緯一四度、東経一七一度で発見されたかのような情報があり、その後消息を絶った。 一月三日喪失と認められ艦長工藤兼雄中佐以下全月戦死と公報されていたが、戦後の米側資料では、一一月一四日(米使用日時)北緯三一度五五分、西経一三九度四五分において、沿岸警備隊の警備艇ロックフォード号と機雷敷設艇アーデント号が撃沈した日本潜水艦があり、これがイ号12潜であるとしている。 しかし、それにしては二〇年一月五日以後消息を絶ったという我が方の当時の記録との食い違いや、タヒチ方面の行動、中部太平洋での戦果が宙に浮く。途中投下しきた擬潜望鏡を発見した前出の警備艇が驚いて攻撃撃沈と誤認したのかも知れない。その辺の真否は何とも判定できない。 米本土附近で通商破壊というあるべき潜水艦本来の作戦に初めて従事したこの艦の活躍及びその最後を確認できないのは極めて残念である。 |