第一次の仁科関夫中尉(当時)がウルシーに突入してから約二か月後の二〇生二月一二日になって、第二次特攻が敢行された。前年の…旦八日に茜カロリン諸島、マリアナ諸島、ブラウン、アドミラルチー、フンボルト方面にある敵前進根拠地に敵機動部隊が在泊する好機を捕えて第二次玄作戦を決行する¥とが決定され、三日後の三日からイ号56潜(アドミラルチー)、47潜(フンボルト)、36潜(ウルシ1)、53潜(パラオ)、58潜(グアム、加賀谷武突入予定)がそれぞれ回天を搭載し目的地に向け出撃していつた。 加賀谷武大尉の乗艦するイ号58潜は、一二月三〇日呉を出撃グアム島に向け南下し、二〇年元旦艦位を確認、発進準備のうえ、水中進撃でグアム島アブラ港南西の発進点に向った。このアブラ港の須厚地区は、一九年七月二五日に武田元孝と杜三義の両期友が米海兵隊と戦い散華した地である。 一二日午前三時一〇分から加賀谷大尉を先頭に四基の回天が潜水艦を離れ水道に進撃していった。母潜は水中避退中に敵機を認めたので深々度に潜航し、回天の命中音が聴知できなかったが、午前五時三〇分アブラ港から黒煙二条天に沖するのを認めた。当時全部隊の挙げた戦果は大きく報じられたが、戦後判明したのは、残念ながら米側には損傷がなかったということである。 イ号48潜は行方不明となっている。 |