(戦況) B24が七四日間にわたる連続爆撃を行ない、二月一六日から三旦間水上艦船が艦砲射撃を実施し、一八日以降百機以上の空母機が銃爆撃を加えた後、一九日の朝米海兵師団が硫黄島に上陸を始めた。守備隊もよく載ったが、正午までに四千名と戦車百五十台の上陸を許した。 フィリピン沖海戦で大損害を受けた水上部隊も、航空部隊共に反撃力なく、ただ所在の陸海軍部隊、航空部隊の健闘に期待し、本土から支援したのは第二御楯隊の特攻攻撃と数次の夜間爆撃だけであり、急行した潜水艦部隊も敵の対潜能力に圧倒されてしまった。 関東地方に敵艦載機が来襲したことに閲し、敵の作戟目的が何であるかの判定に苦しみ情報の収集に努めながら、南西諸島方面で本格的な作戦が始まるかも知れないとの判断に立って、内海西部で訓練中のロ43潜をこの方面に急行させた。この艦には岩根剛大尉が期としては最後の普通科学生を卒業して乗艦していた。 このほかに比島方面の任務を終えて帰投中のロ46潜と50潜に同海域を掃航索敵しながら北上させ、またルソン島西方にあったロ109潜と松村栄之大尉の乗艦するロ55潜にも配備変更を命じた。 一七日になって、米軍の企図が硫黄島占領にあることが明瞭になったので、南下中の岩根大尉の乗艦に東進して硫黄島海域に急行すること、そして他の四隻に帰投することを命じた。更に海兵隊が上陸を始めた一九日になって、大津島にあった回天特攻隊千早隊の乗艦イ44潜(戸田専一)と368、370の各潜にも出撃命令が下った。
艦長は兵学校当時の教官諏訪幸一郎少佐であり、ルソン島西方海域での敵海上交通路遮断任務に従事中、南西諸島東方への移動を命ぜられたのである。その後この艦の連絡が絶えて帰還命令にも応ぜず帰投しなかった。 新しい任務のため移動していたと思われていたのであったが、戦後の調査によると、この艦は新任務が与えられるずっと以前、すなわち二月七日に北緯一五度二七分、東経一一九度二五分において米護衛駆逐艦トーマスン号により撃沈されていた。ルソン島西守ンガエン湾とスビック湾のほぼ中間で極めて沿岸に近い場所であった。なぜこのように沿岸近くを行動したのか筆者にはよくわからないが、攻撃目標を捕捉して、この敵を陸岸近くまで追い詰めていた結果ではなかったのかと想像する。
艦長は月形正気大尉、岩根剛大尉が12期の潜水学生を終えて乗艦したばかりであったと前任者の久保猛が回想する。
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