【戦況】 航空部隊が必死で支援していた沖縄の陸上戦闘は敗退を続け沖縄の北部、中部戦線の名護には四月六日の夜に敵が迫っていた。運天港所在の魚雷艇隊、蚊竜艇隊は敵の来攻により基地物件を処分し、残りの一隻の蚊竜艇を破壊した後、宇土大佐の陸軍部隊に編入されるに至った。 沖縄配備の第二蚊竜隊の第二〇九号艇長大河信義大尉が敵上陸地点に突入戦死し、それに続いた川島厳大尉も残波岬の南西六浬において戦艦を襲撃したが、敵の反撃は激しく十数発の被爆を受け帰還、再起を期さざるを得なかった。そして次期出撃に備え魚雷搭載中に電路の故障から僚艇に衝突し愛艇が沈没するという事故が発生し、残念にも来るべき艇を失ってしまった。 菊水二号作戟に呼応した陸軍部隊が一二日の夜、四か大隊で全線にわたり夜間挺身斬り込みをかけたが、圧倒的な敵火力の前に多大の損害を被り敗退した。 その翌一三日に蚊竜、魚雷艇隊員が立てこもった八重岳にも敵が迫り、陣地が逐次包囲されるに至り、来攻敵軍と交戦していた川島大尉はこの日被弾戦死した。その状況は、隣りで戦っていた主計科コレスで魚雷艇隊主計長であった住田充男著の「海軍めし炊き陸戟記」に次の通り詳述されている。 我々が兵舎にしていた天底国民学校も三月二四日の空襲で全焼して、四月五日夕刻には魚雷艇隊司令の宿舎において各隊とも転進命令を受領、冷酒で乾杯し翌朝から司令は八重岳において指揮をとられることになった。また、蚊竜隊の川島大尉と渡辺義幸大尉(機関科コレス)が生き残りの艇月及び基地月とともに出来るだけ早い時期に八重岳(四五九米)に転進することに決った。
|